歌詞はJ-Lyricという所から、『』で引用したいと思います。
スマホで記事を書くにあたり、Safariで検索したらトップに来たサイトがこれだったので(安直)。
さて、多分この『夕焼けは命の海』は、パスピエというバンドを紹介する時、最初にあがってくる曲ではないと思います。
パスピエのファースト・アルバム「わたし開花したわ」のラストを飾る曲で、他の曲に比べてテンポが遅く、しんみりとした印象をうけます。パスピエらしさはあるのですが、パスピエど真ん中、という感じではないと言いましょうか。
ぼーっと聞いていると、他の曲の
「じゃーっくじゃーっくでーんぱじゃーっく(最初「だーばだー」と聞こえた)」
とか、
「まよーなかーのらんでーぶー」
みたいな、印象的なフレーズもなく、気づいたらアルバム終わってた、みたいな感じかもしれません。
ただ、歌詞に注目してじっくり聴くと、中々凄まじい曲なんです。
何気ない夕暮れ時の風景、平和そのもののような一幅の絵の中に、
命の残酷なまでの儚さや、
生の、グロテスクとも言えるような生々しい実感
を盛り込んである。
始まりはこう。
『夕焼けこやけでトンボの気分 赤い街をながめていたんだ』
この時点で、本歌取りみたいな手法で主題が提示されているのがすごい。
ここからは童謡『赤とんぼ』が連想されます。
そこで、まずは『赤とんぼ』に沿った形で考察します。
『赤とんぼ』の方も、J-Lyricから『』で引用します。
『夕やけ小やけの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か』
負われて見たのは いつの日か』
この『負われて見たのは』は、3番の
『十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた』
を踏まえると、乳母代わりの「姐や」に背負われて、夕焼けの風景を見ていた、というふうに解釈できます(これは既に多くの方が言っている解釈だと思います)。
ここから伝わってくるのは、
鮮明な夕暮れの景色と、
「姐や」の背の温もり、
それから、この若い母代わりの女性に対する、
愛着とも恋慕とも取れぬ柔らかな感情でしょうか。
『夕焼けは命の海』では、冒頭から『赤とんぼ』を連想させるフレーズでこうしたイメージをまとわりつかせながら、
『赤い街をながめていたんだ
ふらふら ふらついていたら お腹が空いて力が出ないな』
ふらふら ふらついていたら お腹が空いて力が出ないな』
と続きます。
正直、現代の僕たちには、『赤とんぼ』で三木露風が描いた風景は、それほどはっきりとイメージできないと思います。
『赤とんぼ』と同じニュアンスの風景を、作詞の大胡田なつきさんは
『街』という単語
で、僕たちにとってよりリアルな風景へと転換させている。
そして、
『ふらふら ふらついていたら お腹が空いて力が出ないな』
と続くことで、「姐や」の温かな背と対象的な、都会の寂しさ、のようなものも演出されています。帰る家があるので、完全な孤独というわけではない、この距離感が絶妙ですね。
『赤とんぼ』のイメージは、第3段落まで持ち越されます。
『綺麗に並んだお皿を見ていた 魚の目もこっちを見ていた
ぼくには恋人なんかいないが 恋ってもんはこんな気分かもな』
ぼくには恋人なんかいないが 恋ってもんはこんな気分かもな』
普通、食べる対象に対し『恋』を連想することはないでしょう。直裁的に言えば、食欲は食欲、性欲は性欲ときっちり分離されているものです。
しかし、夕暮れ時にはそういう昼の論理をぼやかす効果があります。
昼は全てがくっきりと見え、夜は全てが等しく闇に包み込まれる。夕方というのは、物事の輪郭線が揺らぐ、その中間の時間なんです。
「黄昏(=誰そ彼)」と言いますが、もはやその「彼」というのが、人なのかどうかも定かではない。そんな束の間の不思議な時間に、魚に何か淡い肯定的な感情を抱いてしまう、というのは、納得ができる話です。
『赤とんぼ』の中では、夕暮れ時は、
「想起された幼児期の未分化だが暖かい感覚」
と類比的な舞台装置として機能していますが、この
『恋ってもんはこんな気分かもな』は、夕暮れ時に関するそんな感覚を無意識下に蓄積している日本人だからこそ、すんなりと入ってくるフレーズではないでしょうか。
......
さてさて。
ところで、『夕焼けこやけ』と言うと、もう一つ代表的な童謡がありますよね。
『夕焼けは命の海』は、『赤とんぼ』とも浅からぬ関係性を持っているのですが、どうも作品全体を通した原型というか、アレンジ元は、『夕焼け小焼け』なんじゃないか、と思うんです。
そこで、続いて『夕焼け小焼け』と『夕焼けは命の海』の関連性を考えたいと思います。
『ゆうやけこやけで ひがくれて
やまのおてらの かねがなる
おててつないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょう』
やまのおてらの かねがなる
おててつないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょう』
『夕焼け小焼け』も、何度見ても天才的な歌詞だと思います。
小さい頃にこの曲を聴いて、なんとなーく怖い気分になった方も多いと思うんですが、これも、穏やかな風景の描写に見せかけて、
濃密な死の気配を宿した曲ですよね。
ただ、死というものに対し、反発したり、歯向かおうとしたり、あるいは諦めてしまったり、といった激しい感情はない。
ただ、死というのは、別段不思議なものでもなく、そこにあるんだ、と示し、生命の眩い輝きを引き出しています。
『ゆうやけこやけで ひがくれて』とは、
ある人の生が終盤に差し掛かりつつあることを示し、
『やまのおてらの かねがなる』とは、死という現実が、鐘の音の聴覚的、肉体的イメージを伴って迫りつつあることを柔らかく伝えるフレーズです。
ここで、例えば雲の上や、天竺といった、現実から隔絶された地が示されないことに留意。
死後の世界のことなどは何も語らず、ただ、自分たちの暮らす大地と地続きでありながら、大いなる太陽をもその陰に隠す神秘の存在
『やま』の『おてら』が死へと誘うのです。
『おててつないで みなかえろ』
死ぬのは、今まさに死のうとしているその人だけではない、ということ。誰もがやがて死ぬのだから、決して孤独ではない、と包み込むような安心感を、『おててつないで』の表現で示します。
『からすといっしょに かえりましょう』
さらに言えば、生けとし生けるものは全て死ぬのであって、そこに人間と動物の区別すら、もはや存在しない。
これ、西洋人、特に古代ギリシャ的価値観を身につけた人文主義者にとっては恐るべきペシミスム・ニヒリズムの極致だろうと思いますが、何故か日本人はその事実に心安らぐ。そういう国民性なんです。
さて、で、このようなイメージないし意味内容が、『夕焼けは命の海』の中に散りばめられ、様々な所で結びつけられます。
最初にこの『夕焼け小焼け』が強烈に意識させられるのは、第2段落。
おそらくは、この段落が書きたくて、あるいはこの段落が固まったから、曲全体が成立するに至ったのだろうと思わせる、
天才的な発想の歌詞。
『もう帰るよ 夕食だよ
換気扇唸っている
死んだ魚焼ける匂い
肺の中満たして 期待して』
換気扇唸っている
死んだ魚焼ける匂い
肺の中満たして 期待して』
『帰る』という言葉がちゃんと使ってあるのも素晴らしい。
ここで描かれてる風景、容易に想像ができますね。平和、安定、繁栄の象徴がごとき、下町ののどかな情景と、それにふさわしい匂い。でもそれは、
『死んだ魚焼ける匂い』
なんです。
『死んだ』という、事実でありながらあまりに刺激の強い、風景とあまりに馴染まない言葉が、
『焼ける』という、
火葬を連想させる、死の関連語
を伴って、穏やかな日常にスムーズに侵入してきます。
表面上ただののどかな帰宅風景を描いていながら、死の気配が濃厚に漂う『夕焼け小焼け』と共通するものを感じます。
終戦後数年が経ったのどかな広島の風景の内に、原爆の悲惨さを描いた、こうの史代さんの『夕凪の街』にも通ずる所があります。
こうして、死のイメージを濃厚に宿したものとして『魚』を捉えると、第3段落の印象もまた変わってきます。
『綺麗に並んだお皿を見ていた 魚の目もこっちを見ていた
ぼくには恋人なんかいないが 恋ってもんはこんな気分かもな』『綺麗に並ん』でいるのは、これが秩序だった、合理的な、昼の、あるいは「生」の世界の出来事であるように見えることを示します。
しかし、その整理された、清潔ささえ漂う食卓に並ぶのは、死体。
しかし、死を意識せねば、生の輝きは見えてこないとすれば、『ぼく』の生を、自らが死ぬことで輝かせてくれた『魚』と目があって、恋のような感情を覚えるのも不思議ではないでしょう。
『二本の箸で ばらばらだよ
解体のショーだね ああそうだね
昨日はまだ泳いでいたかな
青い海泳いでいたかな』
解体のショーだね ああそうだね
昨日はまだ泳いでいたかな
青い海泳いでいたかな』
ここはお骨拾いを連想させる表現です。
お骨拾いは、火葬後完全に骨になった故人を見て、故人の死を確認し、故人と決別するための出来事ですから、恋に似た感情を覚えた=擬人的に捉えていた魚の「生前の姿」に思いを馳せるのも無理からぬことでしょう。
で、この『泳いでいたかな』の後に、長い長い間奏が入ります。
僕はメロディを感じる能力はさっぱりで、うまい音に乗った“歌詞”の方を聴いて感動することはよくあるのですが、“メロディ”だけで感動することはさっぱりなかったんです。
でも、この間奏は泣きました。誇張なしに。
この間奏の中に含有されてるイメージが凄まじい。
この魚が『ぼく』の口に入り、味覚を刺激し、食欲を満たすという過程と、
昨日はまだ生きていた魚が、炎に焼かれ、死に、『ぼく』の中で不死鳥さながら蘇る過程と、
『魚』と『ぼく』という、本来結びつき得ないような異質な2者が、縁によって結びつけられ、1つになっていく過程が、
一言も文字を介さないことによって、かえってイメージの奔流となって同時に押し寄せる。
毎日毎日ほとんど惰性で行なっている食事という行為が、
本来は生と死のせめぎ合いの中で生まれる、このような圧倒的な神秘を内包した出来事であるということに、
ありふれた風景を不可解な表現の積み重ねで描くことで気づかせる。
『フルカラーの夕食だよ
手と手を合わせて言うんだね
いただきます ごちそうさま
念仏のように言うんだね』
手と手を合わせて言うんだね
いただきます ごちそうさま
念仏のように言うんだね』
もう、『赤とんぼ』や『夕焼け小焼け』の描くような、里山や田園ばかりが広がる世界ではありません。
夕暮れ時だろうが、家の中は明るいライトに照らされ、真昼のごとく『フルカラーの夕食』が演出されます。
そのライトの力で見えにくくなっているものの、食事の本質は大昔から何も変わっていない。
『手と手を合わせて言うんだね
いただきます ごちそうさま念仏のように言うんだね』
『夕焼け小焼け』で『やまのおてら』が担っていた、死への誘引と引導の想起語は、ここでは食前食後の儀式と、『念仏』という単語に引き継がれています。
そして、現代においては、もはや文明が進歩しすぎていて、現代人の目には「土に還る」とか、『からすといっしょに』(=他の生物と同様に)帰る、という感覚は、直接に描くにはあまりに野暮で、リアリティがないものに映ってしまう。
『今日もじきに夕食だよ
換気扇唸っている』
換気扇唸っている』
誰が死のうと何が起ころうと泰然と聳える
『やま』は、現代の世界で、誰が死のうと明日も動き続ける
『換気扇』に置き換えられ(『やま』からは人の死を暗示する『おてらのかね』の音が聞こえ、『換気扇』からは魚の死を暗示する『焼ける匂い』が漂ってくる)、
状況は『夕焼け小焼け』の時代と何も変わっていないが、
『死んだ魚 だけどおまえは
僕の中泳いでいるんだね』
と、『夕焼けは命の海』では、死後の世界が描かれる。
『夕焼け小焼け』では、「帰った」後については、
『こどもがかえった あとからは
まるいおおきな おつきさまことりがゆめを みるころは
そらにはきらきら きんのほし』
と、死者の都と考えられていた「月」や「星」を暗示して終わる。
無数の死者たちが月の輝きの中で暮らしているという古代のイメージが、
『夕焼けは命の海』では、これまで繰り返された食事によって取り込まれた
無数の生命たちが、自分の身体の中で生きている、という、
より過去の生命と自己の生命との連続性を感じさせる結末に置き換えられている。
この曲、日本の古典的なイメージや題材をふんだんに用いながら、生命の素晴らしさ、儚さとともに、生命の永遠なる連続性をも盛り込んだ傑作でありましょう。