タイトル イージー★ライダー

公開年

1969年

監督

デニス・ホッパー

脚本

デニス・ホッパー ピーター・フォンダ テリー・サザーン

主演

ピーター・フォンダ

制作国

アメリカ

 

デニス・ホッパーが監督・脚本・主演、ピーター・フォンダが製作・脚本・主演を務め、低予算ながら世界的ヒットを記録。インディペンデント映画をハリウッドメジャーが配給した最初の成功例として、それまでの映画会社主導による映画製作システムを覆した。アメリカン・ニューシネマを象徴する金字塔的作品として映画史にその名を残す傑作ロードムービーとして、現在でも高い評価を得ている。

最初に見たのは、多分昭和の映画ファン御用達の「日曜洋画劇場」だったと思うが、特に強い印象は残っていなかった。ただ、中盤にマリファナでラリった挙句、ジャック・ニコルソンとデニス・ホッパーがUFO談義を繰り広げたところと、終盤に入り娼婦のヌードだけは覚えていたが、あとはきれいさっぱりと忘却の彼方。その頃はおこちゃまだったので無理はないし、覚えている2シーンは、おこちゃまなら記憶に残るのは当然といったところ。しかし、同時期に見た映画の中にその後もはっきりと覚えている映画も多く、いつの間にか苦手意識が出ていたと思う。その為か、その後VHSや円盤で見る事もなく、BSもなんとなくスルーしていたので今回見るのはそのおこちゃま以来。その結果、軽いカルチャーショックを得たが、同時になぜ記憶に残らなかったのか、よくわかった。

ロスでワイアットとビリーは、メキシコで仕入れたコカインの取引を行い首尾よく大金をせしめる。二人はフルカスタムされたハーレーダビッドソンのタンク内に大金を隠し、ロスから謝肉祭が行われるルイジアナ州ニューオーリンズを目指して旅に出る。

冒頭のこの部分は地理や時間が分かりにくいが、二人はまずメキシコでコカインを仕入れ直後にロスへ移動。そこでシンジケートにコカインを売りつけ大金をせしめている。また、メキシコで二人が乗っているバイクと、ロスから乗るバイクは異なるので、その時手に入れカスタムしたのだろう。また、二人の名前がいずれも西部劇のヒーローの名をもじっている事や、パンクの修理の為に立ち寄った農家で、二人がバイクの修理をやる傍らで蹄鉄を打っているところから、本作は現代の西部劇として描かれている事が分かる。ただ、本作の二人は劇中ヒーローとして描こうとされているが、けちな麻薬の売人に過ぎない。それだけ例え善良な部分があるにせよ、二人が売ったコカインで大勢の人が苦しみ、あるいは命を落とすことになるが、その点を本作は全く描いていない。

道中ヒッチハイクをしていたヒッピーを拾って彼らのコミューンへ立ち寄った二人。そこでは大勢の若者たちが自給自足を夢見て暮らしているが、痩せた埃まみれの土地に肥料らしきものを撒いているだけで、傍目にもうまくいっていないのは明らか。しかもそこは自由を求めて集うコミューンのはずなのに、目に見えない掟がある。幻滅した二人は旅を急ぐことにする。

とある小さな町で謝肉祭のパレードの後に随伴したところ、無許可のデモと言いがかりをつけられ、地元の保安官に逮捕される。しかし、留置所で知り合ったアル中の弁護士ジョージの口利きで留置所を出る事が出来た。ジョージの父親は地元では名士らしく、保安官たちも彼には丁寧に接している。3人は意気投合すると、旅を続ける事にした。

この後、野宿する3人が前述のUFO談義を繰り広げるのだが、それがもろに今でも信じられている宇宙人とアメリカ政府が裏で結びついているという陰謀論。この頃からあの与太話はあったのかと感心するが、ひょっとしたら本作が元ネタだったのかもしれない。

西部劇の馬と現代の馬(バイク)の対比が面白い

 

その後も3人は気ままな旅を続けるが、しかし「自由」を体現する彼らは行く先々で沿道の排他的な人々の思わぬ拒絶に遭い、ついにはジョージが暴漢に襲われ殺されてしまう。

それでも旅を辞めない二人は、ニューオーリンズへと着くと、ジョージの意を汲み取り、娼館に向かうと二人の娼婦と謝肉祭でにぎわう街に繰り出す。ここで覚えていることその2の娼婦のヌードが出てくるのだが、麻薬でラリった夢のようなファンタジックに描かれている。ここは宗教的なイメージで、キリストの復活を思わせるものだが、これはその後の二人の顛末をイメージしているのか。

ジャック・ニコルソンの演技力はこの頃からずぬけていた

 

本作は、死ぬ直線にジョージが言った「アメリカは自由の国だけど、自由な奴を見ると、怖くてしょうがない。そして自由を得るためには、他人の自由を踏みにじることも厭わないし、殺しだってする」の台詞が大きなテーマになっている。少なくとも作り手はそうしようとしたようだ。ただ、本作には最低限のシナリオしかなく、その場その場でデニスとピーターが即興でやっていたという。しかも二人は酔っ払っていたので、製作は大混乱。次々とスタッフは離脱していき、最後の方はかなりかつかつの状態で撮っていた。そのせいか、お世辞にも出来が良いとは言えない。その為、ジョージの台詞が最初からあったのか、それとも即興だったのかはわからないが、少なくともここからはセリフ通りの展開で、映画史上屈指の胸糞な終わり方をすることになる。

ただ、ワイアットやビリーは本当の意味での自由を手に入れようとしており、それを社会が受け入れないというのが表向きの図式だが、本当の自由なら、すべての人が等しく享受できるはずだが、二人が考える自由とは、結局自分にとっての自由であって、他人も享受できる自由ではない。終始二人の態度は変わらず、敵意のこもった視線にこそこそと逃げ出し、仲間が殺されても、何ら行動に出ないかっこ悪い奴で、およそ西部劇のヒーローとは真逆の存在だ。二人は自由の意味を履き違えた連中であり、「俺達は悪くないんだ、社会が悪いんだ」という反体制を名目にした堕落者に過ぎない。

その一方で本作が、大ヒットしたのも事実で、それには様々な理由があるが、その一つに音楽のカッコよさがあることに異論はないだろう。前半でのオートバイの失踪シーンに、終盤の幻想的なシーンで使われる音楽は、掛け値なしでいいし、そこに流れる映像も痺れるほど決まっている。色々厳しい事を書いたが、ここだけはカッコいいと思う。もう一つ上げるなら、公開されたのが69年というのが大きく響いている。この年ニクソンが大統領となり、ベトナムから手を引くことが示された。そうした時代が大きな転換点を迎え、人々が不安の焦燥に包まれた時代だからこそ、本作は大ヒットし映画史に名を残すことになる。恐らく公開時期が数年ずれていたら、そこまで話題になる事もなかっただろう。その意味で本作は、時代に反して誕生したのではなく、時代の要求に見事迎合できた映画と言えるだろう。