タイトル クワイエット・プレイス:DAY 1

公開年

2024年

監督

マイケル・サルノスキ

脚本

マイケル・サルノスキ

主演

ルピタ・ニョン

制作国

アメリカ

 

「クワイエット・プレイス」のシリーズ第3作。田舎の町を舞台にした前2作と変わり、今作では大都会のニューヨークが舞台となり、公式によると「これまで語られてこなかった“何か”が地球に襲来した最初の日を描く」とあるが、前作「クワイエット・プレイス 破られた沈黙」の冒頭で、初日の出来事は描かれている。ただ前作の舞台はニュージャージー州のリトル・ファールズという事らしいので、大都会が描かれるのは初めて。ただ、その事から本作は全2作と整合性が取れなくなっている。

なお、前2作で監督や脚本を務め、シリーズの顔と言っていいジョン・クラシンスキーは、今作では製作を担当。

宇宙から来たというよりも、封印された邪神が解き放たれたという設定の方が良かったと思う

 

主人公のサミラはかつて詩人として活躍していたが、今では末期がんの患者でニューヨークのホスピスで、介助猫のフロドとやがて訪れる死を待つ日々。ある時、介護士のルーベンに連れられマンハッタンにあるマリオネット劇場に出かけた。ただニューヨークの中心部はいつもと異なり騒然としている。空には戦闘機やヘリが轟音を響かせ、地上では警官たちの他に軍用車両が走り抜けている。ルーベンはホスピスに戻るように指示を受けるが、サミラは「ピザを食べる」と言ってきかない。腕利きのピアニストだったサミラの父は、ハーレムのバーで演奏していて、帰りにサミラと近くの店でピザを食べるのが日課だった。余命いくばくもないサミラは、父との思い出の店に行きたかったのだ。しかし周囲のただならぬ雰囲気に渋々バスに乗りこむ。しかし発車したのもつかの間、空から何かが落下してきてバスは停車。飛び出したサミラは次々と人々が怪物にさらわれているのを目撃する。彼女に避難するように指示した兵士も、為す術なく怪物に連れ去られる。気を失ったサミラだったが、先ほどの人形劇の劇場で目を覚ます。彼女の目の前にはルーベンと劇場で知り合ったアンリがいた。

これらの事から、人類は怪物たちの奇襲を受けてやられたのではなく、ある程度迎え撃つ準備はできていた事が分かるが、それは同時に「それなのに、なぜ為す術なくやられたのか」という、新たな疑問が生じる。また、初日に怪物は音に反応し、水を泳ぐ事が出来ない事が判明するが、前作でエメットが泳げない事を知らない様子だった。本作ではヘリが拡声器からその事をアナウンスするぐらい公然の事なので、その事とも矛盾が生じている。

この猫ちゃんが大熱演

 

ルーベンは停電した時、自家発電機が作動したのを止めた事から怪物に襲われ、戦闘機がマンハッタンに架かる橋を次々と落とす。それは泳げない怪物を閉じ込める為だが、同時に取り残された人が閉じ込められることも意味した。しかし、ヘリから港に船が用意されていると知らされ、その轟音に怪物たちもその後を追っていく。その隙に被災者たちは港へ向かうが、途中で怪物が引き返してきたことから、阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。サミラは何とか逃れる事が出来たが、エリックという法律を学ぶためイギリスから来た男と出会う。

2日目で軍は怪物の弱点を把握して、それに基づいた作戦をしている。つまりこの時点では、マンハッタン以外は無事である可能性が高いのだが、これは前作でニュージャージー州の田舎町が初日に攻撃された描写と矛盾する。それに廃墟と化したマンハッタンなら、そこらじゅうで壁が崩れたりドアが風で開け閉めされるようなことはあるはずだが、些細な足音にも飛んでくる怪物が何故かそれらの音に反応する様子はない。またヘリの後を追いかけていくのだから、どこか1か所に集めて核爆弾で吹っ飛ばせばいいと思うのだが、そんな作戦を取っている様子はない。

今回も軍隊と戦うシーンは無し

 

サミラは死ぬ前に父と食べたピザをもう一度食べたい事から、同行を嫌がるが何故かエリックは彼女についてくる。仕方なく同行するが、その間次第と二人の間に確かな絆が生まれていく。しかし、思い出の店は壊されていた。失意のサミラにエリックは他の店からピザを用意し、カードマジックで彼女を勇気づけた。久しぶりに笑顔を浮かべるサミラ。海岸で避難民を満載にした船が通るのを見たサミラは、ある決心をするのだった。

左は前作にも登場した村の長。という事はあそこにエリックと猫はいたのか?

 

このシリーズはかなり好き嫌い、というよりも受け入れられるか?受け入れられないか?で評価が変わると思う。前2作を見て、「もやっ」とした人は、本作を見たところでその「もやっ」とした点が解消されるわけではないので、観賞はお勧めできない。ただ、ハマった人は十分満足できると思う。

私も前2作を見て「もやっ」としたのだが、それなのに本作を見たのは、侵略の最初から描くという事なので、俊敏で力が強く、小火器程度はダメージを受けない程強固な外皮を持つとはいえそれだけで、特に数の暴力と言っていいほどわんさかいるわけでもない怪物に、人類は何故あっさりと滅ぼされたのか?とか、水や風などには反応しないのに、人間が出した微かな靴音に反応するのは何故か?とか、聴覚が敏感すぎて高周波やハウリングの音が苦手なのに、そうした音に溢れている都市を制圧できたのは何故か?とか、そう言った疑問に答えてくれるのでは?と期待したのだったが、残念ながらそうした疑問に一切答えず、むしろ謎は深まったと言っていい。

そもそも最初に「クワイエット・プレイス」を作った時は、音のないホラー映画を撮ろうというアイデアから始まったらしいので、怪物に関し「人が発した音に反応する」という以外、細かい設定はなく、名前すら決まっておらず、作中の小道具である新聞記事からファンの間では「デス・エンジェル」と呼ばれることが多い。上記の疑問に答えるには宇宙から来たエイリアンとするよりも、クトゥルフの眷族とでもした方が良かった気がする。

本作もSF・ホラーとして見るといろいろと疑問が生じるが、これがヒューマンドラマとして見るとまた違ってくる。

主人公は余命幾ばくもない癌患者で、その為世間をひねくれて見て、あえて人と交わろうとしない孤高の人。かつてこのような立場の人がホラー映画の主人公になる事はなかったが、それは最後に死ぬ事が分かるからだ。本作はエイリアン襲撃というSF・ホラーを題材にしつつも主人公の死への道行きがメインとなる。エリックとか道行きの同道者であると同時に、死ぬことしか考えていない彼女が生きる事の尊さを考えさせ、その上で彼女が生きた証を託す人物でもある。その人物は、彼女の事を良くも悪くも知っているルーベンではなく、0の状態で見る事が出来る一見さんのエリックでないとだめだった。そのエリックを演じたジョセフ・クインは素晴らしかった。役柄からルピタ・ニョンゴは、終始不貞腐れたような表情だっただけに、最初の怯えたような表情から次第と引き締まっていき、最後のピザを持ってきての優しげな表情と、正直主人公より感情移入できる。

初期原案の怪物のデザイン。ちょっとカッコ良すぎるか?

 

ホラーやSFとして見ると駄作となるが、優しいヒューマンドラマとして見ると秀作にはなる。なんともちぐはぐだが、本作を見る時、以上の事を含み置けば「なんじゃこりゃ?」となる事はないだろう。そして、猫ちゃんの名演技に拍手!