タイトル 狂へる悪魔

公開年

1920年

監督

ジョン・S・ロバートソン

脚本

クララ・S・ベレンジャー

主演

ジョン・バリモア

制作国

アメリカ

 

何度となく映画化・映像化されているロバート・ルイス・スティーヴンソンの名作「ジキル博士とハイド氏」のおそらく10回目の映画化作品。ハリウッドきっての名門バリモア一家・三兄弟の末弟であり、ドリュー・バリモアの祖父に当たる「偉大なる横顔」と呼ばれたジョン・バリモアが主演を演じたサイレント時代の傑作だ。様々な点で、後の映像化作品に多大な影響を与えたジキルとハイドものの原点。本来なら“原点にして頂点”と名付けてもいいぐらい高い完成度を誇るが、サイレント特有の大げさな演技がある点や、次の31年版はけた違いに完成度が高い点から次点とさせていただく。

ストーリは、人格高潔なジキル博士は暇を見て貧しい人々を無料で診察するほどの篤志家。婚約者のミリセント・カルーの父、サー・ジョージ・カルーからも気に入られているが、研究に没頭するあまり人付き合いはあまりよくない。さすがに自分の娘のフィアンセが、ここまでの堅物だとまずいと思ったサー・カルーは、「人間には手が2つあるように2つの面をもっているものだ、君は右手を使うからといって左手は一切使わないのか?」と、何ともうまい?例えでジキルを諭し、場末の酒場に連れていく。そこには、店の看板娘ジーナに心惹かれてしまう。このことの衝撃を受けたジキルは、「人に善と悪があるのなら、それぞれ分離できれば2つの人生を楽しめるのではないか」と、究極の結論に達する。そこで研究に没頭すると、遂に人格を分離する薬を発見する。本作でジキルは、最初から人格分離する研究をしているのではなく、カルー卿の助言と自分に悪の心がある事を感じ、研究に没頭するのがその後の作品とちょっと違うところ。この事が、ラストの重大な悲劇に繋がる。

この後は薬を飲んだジキルが、完璧悪人のハイドとなって夜な夜ないかがわしい盛り場を徘徊し、悪の限りを尽くすことになる。ただ、ここはその後の作品と違い、ハイドは安アパートに住まいジキルは失踪したことにしている。そして、ジーナとも再会し弄ぶが、この辺りは31年・41年版のアイヴィーに繋がっているが、ヒロイン扱いだったアイヴィーに比べるとジーナの出番は少ない。演じたニタ・ナルディはエキゾチックな風貌から後にヴァンプ女優として人気になったが、事実上本作がデビュー作で、それもジョン・バリモアの推薦を受けての事なので、ジョンの顔を立ててのチョイ役と言ったところだろう。ただ、ジーナの存在はハイドの堕落を強調するキャラクターとして、その後に多大な影響を与えた。

その後、心配したカルー卿たちがジキルの屋敷に来た時、子供に乱暴するハイドと遭遇。カルー卿の出現に動揺したハイドは、子供の治療費として小切手を差し出すが、カルー卿はジキルの筆跡であることに気が付きジキルの屋敷の戻り、執事からハイドの事を聞く。そこでジキルの研究室に押し掛けるが、そこには薬で元に戻ったジキルがいた。ハイドの事を問いただすカルー卿にジキルの怒りが爆発。「最初に私を唆したのはあなたじゃないか‼」。その時、薬もなくハイドに変身し、カルー卿をステッキで撲殺。その場を見られたので、ハイドのねぐらに戻り証拠隠滅を図る。それからのジキルはちょっとしたことでハイドに戻り、それを抑えるため薬に頼る日々。だが、薬を作る原料が底をつき、ロンドン中を探しても見つからない状況に絶望するジキル。そんな時、フィアンセのミリセントが訪ねてくる。彼女の声を聴くと、ハイドに変身してしまった。

特殊メイクが未発達だっただけに、ジョン・バリモアの演技が重要

 

サイレントだけに、演技はオーバーでシーンの合間に説明が入るので、今の視点だとテンポが良いとは言えないが、当時はかなりハイテンポだったはず。そして、モノクロの映像が雰囲気を盛り上げ不気味さを醸し出している。当時は特殊メイクの技術が初歩の初歩だっただけに、かなりぎこちないのだが、その分バリモアが演技でカバーしていてそれがまた怖さを強調している。

後半には、ベッドで眠るジキルに巨大な蜘蛛が這いより覆いかぶさる事で、ジキルがハイドに支配されることを暗示しているが、ここは見所の一つだ 

巨大な蜘蛛の影がジキルと同化し、彼はハイドに取り込まれてしまう

 

そしてラストは、本作以降の作品だとジキルはハイドを押えられず他者からの暴力でないと事態を収拾できないのに対し、本作では原作通りにジキルが自分の意志でハイドを排除していることころも好感が持てる。

現代では、どうしてもサイレント映画は敬遠されがちだが、「ジキル博士とハイド氏」を語る上では、絶対に欠かせない1本なので機会があればぜひ見て欲しいと思っている。