タイトル デビルクエスト

公開年

2011年

監督

ドミニク・セナ

脚本

ブラギ・シャット

主演

ニコラス・ケイジ

制作国

アメリカ

 

本作はドミニク・セナ監督、ニコラス・ケイジ主演の「60ミニッツ」コンビがタッグを組んだファンタジーアドベンチャー映画。原題は「Season of the Witch(魔女の季節)」と、意味不明気味だが、邦題は明らかにネタバレとなっている。

オーストリアのフィラッハで3人の魔女の処刑から始まるのが本作。意外なのは処刑方法が絞首刑なこと。魔女は蘇りを阻止するために、火あぶりにするのが当たり前だが、その後で神父は一人で遺体を引き上げ、「ソロモンの書」で蘇らないように封印をする羽目になる。現代では中世の魔女裁判で処刑された中に、魔女と呼べるものはいない事は常識だが、本作では何と二人が蘇り神父を返り討ちにする。だから、何故火あぶりにしなかった?

それから100年後。十字軍の騎士ベイメンと騎士フェルソンはいつまで続くか分からぬ戦いに次第と嫌気がさしていたが、スミルナの戦いで女子供まで殺すのに嫌気がさしで脱走する。10年も放浪し故郷のスティリアに戻った二人だったが、そこはペストに犯されていた。急いで立ち去ろうとするが、脱走兵であることがばれ、ダンブロワーズ枢機卿より放免と引き換えにペストの原因である「黒い魔女」をセヴラック修道院まで送る任務を依頼される。魔女と呼ばれる女はまだ少女だった。

地名から舞台となっているのはオーストリアであることは間違いない。アメリカ映画の常だが、登場人物が喋るのは英語。それもアメリカ英語だ。ここは「ベン・ハー」の時代から刷り込まれているので慣らされてしまったが、前述の通り魔女裁判で処刑された魔女は嘘というのが常識。だからこの女は絶対に魔女ではないはずだと観客には分かる。確かに彼女は魔女でなかったが、もっととんでもないものだった。

途中でなんやかんやあって二人が命を落とすのだが、このなんやかんやが問題で、明らかにこの少女は不思議な力を持っている。しかし魔女裁判に魔女はいないはずなので、ここが大きな謎となるのだが、ここで邦題の問題点が出てしまう。それと、これはどうでもいい事だが、公式だとこの魔女を“少女”としているが、演じているクレア・フォイは公開時27歳で、少女とは呼べないし特に幼く見えるように演じてもいない。

相棒がロン・パールマンだから演技でも問題なし

 

なんやかんやの末にセヴラック修道院に到着するが、そこは既にペストで修道士たちは全滅していた。途方に暮れる一同だが、虫の息の修道士が1冊の本を指し示した。それは「ソロモンの書」。デベルザック神父は魔女を払う呪文を唱えるが、魔女の態度が一変。それを見た神父は、彼女が悪魔そのものであることを見破る。あわてて悪魔祓いの呪文を唱えるが、時すでに遅く、悪魔は脱走していた。簡単に脱出できるなら、なぜここまで来たのか疑問に思ったが、悪魔の目的は「ソロモンの書」をこの世から消し去ることであり、その在り処を知るため魔女を装って教会の者たちに案内をさせたのだった。一同は「ソロモンの書」を守るため、悪魔に戦いを挑むのだった。というのが大まかな粗筋。

この頃の(今でもだが)ニコラス・ケイジはB級映画に多数出演していた頃で、2011年には4本もの映画に出演している。本作も思いっきりB級映画であることは間違いないが、突っ込み所はあるものの脚本は割とちゃんとしているから、最後まで適度な緊張感をもって見る事が出来た。正直魔女の正体は邦題もあって、ある程度は予想がつくのだが、ひょっとしたら彼女は天使で、神父の方が悪魔ではないかと思わせるところあったりして、個人的には結構ハラハラさせてくれた。ただ、ラスボス戦は少々しょぼいCGで作った悪魔よりも、クレア・フォイが生身の姿で演じてほしかった。どれだけ技術が発達しても、生身のアクションの方が引き付けられるし、本作B級にしてはエロさが足りないのでセクシーにしてくれればいうことない。

確かに魔女じゃなかったが...

 

ただ本作はひどく評価が割れているが、その理由もなんとなくわかる。それは魔女狩りを正当化して最後は、キリスト教の正義を描いているところだろう。それにペストの原因を悪魔の仕業とする様な、オカルト万能な描写も気になると思う。それさえ気にせずに、あくまでエンタメとして楽しむのなら面白く見れると思う。