タイトル 渚にて

公開年

1959年

監督

スタンリー・クレイマー

脚本

ジョン・パクストン

主演

グレゴリー・ペック

制作国

アメリカ

 

本作は、イギリスの作家・ネヴィル・シュートを原作にした、核戦争による人類滅亡を描いた映画。ただ、戦争終結後から物語は始まるため、直接的な戦争描写はない。ちなみにネヴィル・シュートは第2次大戦中に海軍中尉として「雑兵器開発部」(DMWD)に所属し、様々な兵器の開発に携わっていた。その際、珍兵器として有名なパンジャンドラムの開発に携わり、命名者となったのは有名。本人の名誉のため付け加えると、他にロケット徹甲弾の開発にも関わっていて、こちらは対Uボートや対戦車攻撃に威力を発揮している。

戦後、左傾化する英国に見切りをつけてオーストラリアに移住する。要するに「揺りかごから墓場まで」を実現するため、金持ちからふんだくったからで、本人も「イギリスの税制に圧迫されている」と後に語っている。事実、この頃の英国から多くのセレブたちがアメリカに脱出しているが、ネヴィル・シュートはアメリカが嫌いだったらしく、移住先にオーストラリアを選んだ。彼の他の著作を見ると、SFは本作ぐらいしかないので、SF的なアプローチから本作を企画したわけではない様だ。

なお映画化にあたり、シュートは不満を表明したというが、明確なソースが無く公開の翌年、脳卒中で没しているのでそのあたりは今でも不明なままだ。原作は、ずいぶん昔読んだだけなので、はっきり覚えていないが、「映像化にあたっての脚色」程度でそれほど極端な違いはないように思える。

グレゴリー・ペックにエヴァ・ガードナーとベテラン二人の恋愛模様

 

第3次世界大戦により、北半球が滅びた後のオーストラリアを舞台とする。映画の冒頭は、ドワイト・タワーズ中佐率いる米原子力潜水艦スコーピオンが、メルボルンに入港するところから始まる。米海軍の協力が得られなかったので、本作ではオーストラリア海軍が全面的に協力。空母メルボルンが撮影に使われている。その為の謝意が映画の冒頭に流れる。また原子力潜水艦スコーピオンは英国海軍の通常動力潜水艦HMSアンドリューが代役を務めている。

オーストラリア海軍のピーター・ホームズ少佐がブラディ提督に呼ばれ、スコーピオンに乗り込むことが命じられる。しかしメルボルンも5か月後には放射能に犯されることが予想され、その時に家族とともにいたいというが、4ヶ月で帰れるということで拒絶された。いや、そんな問題じゃないだろうと思うが、実はこれには重要な意味があり後に明らかとなる。

ピーターの妻メアリーは明るく朗らかな性格だったが、それは忍び寄る死の恐怖を懸命に無視することで得られている事にピーターは気が付いていた。

メルボルン市内は、ガソリン不足から馬車や自転車が走るという、さながら19世紀のような様相。資源大国のオーストラリアだが石油はあまりとれない。その代わり石炭は豊富。その為か火力発電は問題ない様で、街中も電車は走っているしネオンは煌々と点いている。

最後まで心の距離を縮められなかった二人

 

ピーターはドワイドを自宅に招き、友人たちと歓迎パーティーを行うが、この時酒豪のモイラと意気投合する。しかしパーティーはオズボーン博士の放射能に関する発言で白けてしまった。ドワイドとモイラの関係の描写が絶妙で、二人は互いに好意を持っているが、ドワイドの中には故郷に残した奥さんがいる。当然奥さんは生きていないのだが、彼の心の中にはまだ彼女が生きていて、それがちょっとしたきっかけで出てきて、モイラを傷つける。彼女の「奥さんが生きているのなら奪ってやるが、それはもうできない」というセリフが二人の微妙な関係を物語っていて、それはラストまで残っている。

主演はグレゴリー・ペックで、ハリウッドきってのリベラル派なので、この役はぴったりと言える。ピーターにはアンソニー・パーキンス。そしてモイラにはエヴァ・ガードナーにオズボーン博士はフレッド・アステアと超豪華。ただその中で異彩を放つのが、メアリーを演じたドナ・アンダーソン。初登場時から明るさの中にも異様な狂気を秘めていて、見ている側に忍び寄る脅威をいやでも感じさせる名演技。その後、俳優としてあまり成功しなかったようだが、本作での演技は彼女の秘めたる才能を感じさせる。

彼女の危うさは、この世界の危うさを表している

 

その頃、オーストラリアでは北半球の放射線レベルが予想よりも速く低下した可能性があり、少なくとも南極に放射能が到達する前に消滅する可能性があるという説が出されていた。スコーピオンにアラスカ沖でそれを確かめるように調査が命じられる。それと同時にシアトルで不審な電波が出ていて、その調査も命じられた。

スコーピオンはアラスカ沖で放射能の測定を行うが、濃度が下がっている兆候は見つからない。希望が打ち砕かれ、サンフランシスコ沖でこの町の出身者である乗員が脱走し故郷での死を選ぶのだった。

そしてシアトルでは、防護服を着て調査に向かうが、そこで見たのはカーテンのレールに引っかかったコカ・コーラの瓶が風に揺られてモールス信号を打つ姿だった。

万策尽き帰港したスコーピオンを待っていたのは、静かに死を迎え入れて日常を過ごす人々の姿だった。

せめて故郷で死を向けたいと願う乗員。その行動はラストに影を落とす

 

「オッペンハイマー」を見た後、核戦争を描いた映画の感想を書こうと思い立ち、「博士の異常な愛情(以下略)」「未知への飛行」「世界最終戦争」等、色々考えた末に選んだのが本作。核戦争になれば、アメリカの大都市には核ミサイルが落下しているはずだが、本作では核で破壊される街の描写など、核戦争を思わせる描写は一切なく、ロサンゼルスなどのアメリカの都市に破壊の痕跡はおろか、人間の死体すら転がっていないある日突然人間だけが消滅したかのように、町はどこも綺麗だ。無論それらはわざとやっているので、滅亡の原因となった人類が消え去った後の世界を描いているのだろう。

核保有国が核を持たない国を恫喝する我々の世界に果たして時間はあるだろうか...

 

それよりも本作で描かれる、滅亡に直面した人々の静かにそれを受け入れる姿が、強烈な印象に残る。狂気に陥ったかに見えたメアリーも最後はピーターとともに静かに死を受け入れた。それも紅茶に薬を入れて飲むというやり方。映画の冒頭で、起き抜けのお茶と二人で飲むシーンがあるが、あの時点では生きている事の希望の暗示だったが、あれのメタファーとなっているのは明らか。そしてラストでは、ドワイドとモイラとの心の距離が、結局詰められないという終わり方をしているのも印象的だ。

 

核兵器の是非については色々な意見があるだろうが、本来大国同士の戦争のエスカレーションを抑止する目的の為にあったはずだ。しかし現実世界では、核保有国のロシアは非保有国のウクライナに攻め込み、支援する国に対して格の恫喝を行っている。ある意味、パンドラの箱を開けたといえるかもしれない。