タイトル 落下の解剖学

公開年

2024年

監督

ジュスティーヌ・トリエ

脚本

ジュスティーヌ・トリエ アルチュール・アラリ

主演

サンドラ・ヒュラー

制作国

フランス

 

本作は、フランスはグルノーブルの雪に囲まれた山荘で起きた転落事故をきっかけに、その山荘に住む一家の本当の姿をあぶりだすヒューマンドラマ。

2023年・第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で最高賞のパルムドールを受賞したヒューマンサスペンス映画。第96回アカデミー賞でも脚本賞を受賞した。それと本作で見事な演技を披露した犬は、カンヌ国際映画祭で優秀な演技を披露した犬に贈られるパルム・ドッグ賞を受賞している。これには何ら異論はない。

本作を見た第一印象は、いかにもカンヌが好みそうな地味でありながら細部まで丁寧に描かれた映画ということだった。

邦題やポスターのビジュアルからミステリーを想像するだろうが、本作にはミステリー要素は皆無と言っていい。見ていても特に衝撃の事実が明らかになり、意外な真犯人が登場する事もない。ただ、別の事を解明していく映画だ。その意味ではミステリー映画と言えるかもしれない。そして、意図したのかどうか不明だが、フランスとドイツの長年にわたるわだかまりも背景にある様に感じた。特にフランス人のドイツ人へのわだかまりは、今でもかなりあるのだと思い知らされる。

映画の舞台は人里離れた雪山の山荘。冒頭で、学生からインタビューを受ける主人公のサンドラ。ただ、単なるインタビューというより、打ち解けた雑談と言った感じ。実は彼女はバイセクシャルで、それを踏まえると確かに誘っているようにも見えなくはない。しかし、夫のサミュエルの部屋から大音量で音楽が流れ、インタビューは中断され彼女は帰ってしまう。その直後、犬を連れて散歩から戻った息子のダニエルが、サミュエルの遺体を発見し、大声で母に知らせる。

警察の捜査で不審点が出てきたので、サンドラ殺人罪で起訴される。とはいえ前日に夫婦ゲンカをしていたものの状況証拠ばかり。フランスの司法制度の事はよく知らないが、有罪率99.9%を誇る日本は絶対勝てる事件しか起訴しないから、逮捕状請求に至るかすら疑問な状況。もっともフランスの有罪率も92.6%だから格別低いわけではないし、そもそも海外ではテロなどの凶悪犯の場合射殺するケースも多い。

ここから法廷劇となり、最終的には判決が出るが、本作では動かぬ証拠は出てこない事から、すっきり解決とはいかない。しかし監督は事件の真相はちゃんと決めたうえで、あえてそこをぼかす脚本を考えたように思える。

前提の知識として、サンドラはサミュエルと息子のダニエルはロンドンに住んでいた。この山荘に引っ越したのは、サミュエルの提案で、改造して民宿にするつもりだったが、金銭的な理由で果たせずにいる。

夫婦は作家を目指していたが、成功した妻に比べ夫は構想は良いもののうまく書くことが出来ずに、教師の仕事就いているが作家への夢も捨てきれないでいる。

まさに大熱演のわんちゃん

 

ダニエルは視覚障害があるが、それはサミュエルが不手際が原因で、それ以来彼は抗鬱剤を服用して、その為夫婦間がぎくしゃくしている。そして前日の夫婦喧嘩を始め、その内容を含め夫は夫婦の会話を日常的に録音している事も判明する。

この前提で殺人事件が起きるとすれば、自分の不甲斐なさと妻の成功を妬んで、夫が妻を殺すという事件を想像すると思うが、本作で死んだのは夫の方となる。つまりこれを“殺人事件”とすること自体、かなり無理がある。その理由は劇中で描写されていないが、劇中での検事の態度や法廷で最初はドイツ語はもちろん、英語すら禁止されていた事から、私はサンドラが外国人、それもドイツ人であると感じた。

何度も書いている通り、本作では事件の真相は明らかとはならない。

それより本作は描きたかったのは家族の姿。傍から見ると理想的な夫婦に見える二人の本当の関係が、裁判を通して次第と明らかになる姿は、何とも言えない気分になる。

決定的証拠が無いので、検察は二人の夫婦関係を暴くことで、動機を焙り出そうとするのだ。正直本件で、検察が起訴に持って行ったのが疑問に思えるほど薄弱な根拠でしかない。そしてそれをあぶりだす検事を演じたアントワーヌ・レナルツは、頭をスキンヘッドにして厳つさと怖さを醸し出す。憎まれ役だが時にチャーミングに思える程の好演。彼に比べると弁護士ヴァンサンは防戦一方でイマイチ頼りない。素人ながら、「証拠が無いんだから、もっと相手の無理筋さを攻めろよ」と思ったし、いくら旧知とは言えサンドラとの距離に違和感を覚えた。調べると設定上二人は元恋人だったようだ。それで腑に落ちたが、劇中ではそれを直接言及する事はない。この辺りも本作がエンタメに全く振れていないことを如実に示している。そうするとスワン・アルローも、なかなかの好演だったといえる。

憎まれ役だが、フランス人のアイコンだったのかも

 

その結果、二人のすれ違いの生活が浮き彫りとなり、二人の関係はダニエルを介してかろうじてつながっているかのように見える。ただ、これは別に意外ではない。冒頭のインタビュー中に大音量で音楽を流すなど、良好な夫婦関係なら起きない事。ただ夫婦関係は冷めているかというと違うようだ。「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」というが、サミュエルはサンドラに憎しみを抱いている様に感じた。

主人公のサンドラを演じたサンドラ・ヒュラーも良かったが、一番は息子ダニエルを演じたミロ・マシャド・グラネール。監督は裁判の結果をあいまいにしたまま彼に演じさせたというが、父が死に母が容疑者になるという、極限状態の中での年相応の揺らぎ。悩み。葛藤などを見事に演じている。劇中で一番傷つき、そして一番成長したのは彼だろう。

最初は父が死んでもなく事しかできなかった彼が、次第に現実を直視し受け入れるようになる。裁判長から「あなたに辛い事があるから傍聴を見合わせるように」と諭されても、彼は法廷へ向かう。そして最後に重大な決断をし、それが裁判に決着をつける。あの狡猾な検事の前でもひるまず、まっすぐ相手を見据えるその姿は神々しさすらある。余韻のあるラストを含め、本作に彼の存在は欠かす事が出来ない。ただ、彼は視覚障害があるという設定は、あまり生かされているとは言い難いし、時々それを忘れて演出しているようなところもある。

サミュエルがダニエルに話したことは、本当にあったのか?

 

これは全く余談だが、ミステリー作家・七尾与史氏のYouTubeチャンネルで本作を取り上げ、「自分があの旦那さんだったら、奥さんの稼ぎで生活できるのだから万々歳」と言っていたが、それはご本人が作家として成功しているから感じる事だろう。

本作で浮かび上がツサミュエルの人物像から、かなり気位が高く神経質で傷つきやすい性格だと推測できるので、結婚した時は対等だったのが次第に格差がついて行くのは耐えられず、自分のネタを拾って、それがサンドラの成功のきっかけだったとすれば、言わずもがなだ。

手前の納屋の屋根に、落下の痕跡が見られるから、ここにぶつかり打撲傷を受けた事は明らか

 

ただ、私も配信を含め毎日のように映画を見ているので、面白そうなネタを思いつくことはたまにある。ただ、どれだけいいネタがあっても、それを脚本として完成させるのは別問題。私はいまだ一つとして完成させたことはない。

しかし時とともに広がる格差と、自分がダニエルの障がいの原因を作ったということは、次第と本人の心を蝕んでいったことが想像できる。その意味では気の毒だが、本作を見ると、サミュエルに同情心は全く起きなかった。同時にダニエルにのめり込んでいたので、終盤までサンドラにもあまり感情移入できなかったのだが、それはラストで一転した。あのシーンでサンドラは、事件の容疑者であるとともに、夫を亡くした被害者でもある事を思い知らせる判決後の一連のシーン。それまで淡々としていた映画が、急にドラマチックな展開を見せたように感じた。