タイトル スターリンの葬送狂騒曲

公開年

2017年

監督

アーマンド・イアヌッチ

脚本

アーマンド・イアヌッチ デビッド・シュナイダー イアン・マーティン ピーター・フェローズ

主演

スティーヴ・ブシェミ

制作国

イギリス・フランス

 

フランスのアーティストのティエリー・ロビンと脚本家のファビアン・ヌリーによって作成されたグラフィックノベル「La mort de Staline(スターリンの死)」を原作に、ソ連に長年君臨してきた独裁者スターリンの死により巻き起こった権力闘争をシニカルに描いた映画。

映画はコミックを原作にしているせいか、大げさでコミカルなシーンが多く、必ずしも史実に忠実なわけではない。しかし、独裁者の死によって生じた権力の空白に、側近たちが動き出すさまを分かりやすく描いている。

独裁者の気まぐれに翻弄される小市民たち

 

ラジオでオーケストラによる生演奏が行われていたが、そこにスターリンから「その演奏の録音が欲しい」と電話が掛かり、録音をしていなかった現場はてんやわんやの大騒ぎ。帰りかけた観客を引き留め、足りない分はサクラで誤魔化し、ぶっ倒れた指揮者の代わりを見つけ、「演奏したくない」と言うピアニストのマリヤ・ユーディナを2万ルーブルでひき止め、再演奏の末に録音を完成させ、無事にスターリンの元に。それと並行して、ラヴレンチー・ベリヤ率いるNKVD(内務人民委員部。後に独立してKGBとなった)は「粛清リスト」に基づく国民の逮捕粛清を実行し、モスクワでは次々と容疑者が連行されていた。

録音を手にしたスターリンは早速レコードをかけるが、一緒にマリヤが残したメモに気が付く。彼女は家族が粛清の対象となっていた事から、罵倒の言葉が書いてあったが、スターリンは笑い飛ばす。その直後、スターリンは胸を押えその場に倒れてしまう。その音を聞いた衛兵は、処罰を恐れて何もしなかった。翌朝、お茶を届けに来たメイドにより、卒倒しているスターリンが発見され、ソ連の首脳陣に震撼が走る。

この時、マリヤのメモを一笑に付したが、これはマリヤ・ユーディナの事をスターリンはひどくお気に入りだったからだろう。無論、このエピソードはフィクションだ。

悲しむ演技をしつつ、次を考える権力者の性

 

ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフの3人が早速駆け付け、どうするか協議するがとりあえず医者に見せようとするが、有能な医者は全員収容所にいる。そこで、集められるだけの最善の医師たちをかき集め、診断させたが「もう回復しない」という診断。

これを受けバリヤはモスクワの警備を軍からNKVDに交代させ、着々と権力の掌握を図るが、何とスターリンが息を吹き返してしまう。驚愕する一同だったが、後継者を指名することなく永眠。この情勢に、実務能力が乏しいマレンコフをベリヤが担ぎ、当面のライバルのフルシチョフに対抗。彼に葬儀委委員を押し付ける事に成功。更にスターリンの命令を無視して、囚人を解放し、着々と権力を固める。

ある意味一番運命に翻弄されたのはこの二人ではないだろうか

 

しかし、フルシチョフも黙っておらす、封鎖されていたモスク行き列車の運行を再開させ、モスクワに人々が殺到。NKVDはパニックを起こし発砲。1500人もの死者を出す大惨事となる。更に畳みかけるようにフルシチョフは、軍の重鎮で独ソ戦の英雄ジューコフと手を組み、ひそかに軍をモスクワに入れ葬儀を利用してクーデターを画策するが、肝心のマレンコフは優柔不断な態度ではっきりとしないことから彼を見限り、他のメンバーには「マレンコフも同意した」と嘘を言い、決行を図る。と言うのが大まかな粗筋。

ロシアが舞台で登場人物もほぼロシア人なのに、俳優の多くはアメリカ人がイギリス人。使用言語も英語と言うのが製作したのがイギリスだから仕方ないがなんともシュール。撮影もほぼ英国で行われ、一部ウクライナのキーウで撮影された。

映画と史実は必ずしも合っていない。ベリヤがフルシチョフとの権力争いで敗れ、処刑されたのは事実だが、スターリンの死は3月なのに対し、彼が処刑されたのは12月と、かなり間隔がある。しかし本作はそのような史実に即した歴史劇を描こうとしたわけでなく、政治風刺が得意なアーマンド・イアヌッチだけに、権力者の死であるものは後継者の椅子を狙い、あるものは何とか自分の地位を守ろうとする、自己中の塊のような権力者が右往左往する姿シュールに描こうとしたのだろう。その点では本作は成功している。

その後、波乱万丈の人生を歩むことになるスターリンの娘スヴェトラーナ

 

最後を見ると、結局権威主義国家では武力を握ったものが最強という事になる。その意味で、今ウクライナでプーチンは執拗に軍を消耗させているのは、自分の権力を守るという意味では正しいのかもしれない。などと思ったりして…