ホワイト・ドッグ 魔犬(1982年)監督 サミュエル・フラー 主演 クリスティ・マクニコル(アメリカ)

本作はその性質上、ネタバレしないと説明できないので、結末を書いている。だから、結末を知りたくない方は、改行のところで読むのをやめてほしい。
「魔犬」というサブタイトルがついているから、ホラー映画と思われがちで、昔見たVHSのパッケージも口から血を滴らせた白い犬が、歯をむき出しにしているという、いかにもホラーチックだったが、実際には人種差別にメスを入れたサスペンス映画である。最初に断っておくが、本作は相当な胸糞映画だ。ただし、それは映画そのものが胸糞というわけではなく、映画が描いている題材が胸糞だ。

暴漢から救ってくれたことからジュリーの白犬への信頼は強固に


フランスの小説家ロマン・ガリーの「白い犬」を原作に本作の脚本が手掛けられたが、この小説はガリーの妻でアメリカの女優のジーン・セバークが飼い始めた犬が、立て続けに3回も人を襲った事を題材としている。そして襲われた人はすべて黒人だったことから調べると、かつて奴隷制度があった時代、逃げた黒人奴隷を探して襲うように躾けた犬がいた事を知り、それを題材として原作小説が書かれることになった。実際に黒人だけを襲う犬が存在したという事に、リアルな恐怖を感じさせられる。
映画は主人公の新人女優ジュリーが夜中にドライブ中、1匹の白い犬をはねてしまうところから始まる。獣医に持ち込んだところ大したことはないことが判明し、最初は乗り気ではなかったものの、施設に引き取られると3日で処分されることから、飼い主が見つかるまで彼女が飼うことになった。ジュリーと白犬は次第と心を通い合わせ、やがて家に侵入した暴漢から彼女を守ったことから、白犬への信頼は強固なものとなる。

前半に登場した恋人のローランドだがいつしかフェードアウト


ジュリーを演じているのはクリスティ・マクニコル。テレビシリーズ「ファミリー/愛の肖像」や映画「泣かないで」でアイドル的な人気を得た。日本でもテイタム・オニールと共演した「リトル・ダーリング」で大ブレイク。日本人好みの親しみ易く愛くるしい顔立ちから大人気となる。
だが、仕事場に白犬を連れて行ったところ、おとなしくしていたのに急に黒人の共演者に襲い掛かってしまう。恋人のローランドは人を襲う様に調教された攻撃犬と疑い処分するように勧めるが、ジュリーやローランドにはおとなしいので、あきらめきれず動物の調教施設に連れて行くと、そこにいた黒人の使用人に襲い掛かる。それを見たオーナーのカラザスは「そいつはただの攻撃犬じゃない。黒人を襲う様に躾けられたホワイト・ドッグだ」と叫ぶ。
かつて逃げた黒人奴隷を探す為だったが、その後ただ単に差別主義者が黒人を襲う為に調教することもあり、元に戻すことは出来ないと言われ驚愕するジュリー。だが、もう一人のオーナーで黒人のキーズが調教をやると名乗り出た。
キーズを演じているのがポール・ウィンフィールド。「サウンダー」でアカデミー主演男優賞にノミネートされた実力派だ。

キーズにとってこの調教は、人種差別との戦いだったのかもしれない


キーズはかつてホワイト・ドッグの調教を試みたことがあったが、一度も成功したことはなく、今度こそはと矯正を始めるのだが途中逃げ出し、教会の中で黒人を襲い死なせてしまう。それでも調教をあきらめないキーズだった。
この部分はぼかして描かれているが、キーズは明らかに警察に届けていない。つまり調教を優先するあまり、 “殺人”に目をつぶったことになる。なぜそこまで調教に打ち込むのか、劇中で語られないが、おそらく犬を調教することで“人種差別”を克服できると考えていたのかもしれない。ただ、それが正しい考えなのかは本作の結末を見ると、何とも言えない。
本作はその衝撃的な内容から撮影前から、全米黒人地位向上協会(NAACP)から激しい抗議を受け、完成後もボイコットを呼びかけられたため、パラマウントは公開規模を縮小せざるを得なかった。ただ、その時点でNAACPの誰も映画を見ていなかった。本作には人種差別を増長させる意図はなく、むしろ過去の負の遺産と真摯に向き合う姿が見て取れる。もっともパラマウントは本作を、「ジョーズ」のようなアニマルパニックとして制作することを望んでいたようだ。当初はロマン・ポランスキーが監督となるはずだったが、レイプで起訴され国外逃亡した事から、サミュエル・フラーが起用されることになった。ポランスキーならホラーに寄せていたかもしれない。


※以下ネタバレ
その後なんとか調教に成功。黒人を見ても噛まなくなる。最後のテストをやるという電話を受けたジェリーは、喜び勇んで駆け付けようとするが、その前にいかにも好々爺然とした恰幅のいい老紳士が、二人の少女を連れて現れる。先を急いでいるので適当にあしらおうとするが、彼こそ白犬の飼い主だった。にこやかに語りかけてくる相手にジェリーの怒りが爆発し罵ってしまう。それに対して相手は「あの犬は自分の傑作だ」と言って開き直るだけだった。

その場を後にしたジェリーは最後の訓練を見守る事に。キーズにもなつき、ジェリーにたいして一瞬敵意を見せたがこれも克服。安堵したのもつかの間、今度はカラザスを目掛け、猛然と襲い掛かる。悲しそうな顔で銃を発射するキーズ。大怪我をしながらもカラザスは助かるが、そこには血まみれで横たわる白犬がいた。

両脇の二人の少女は祖父から何を学ぶのだろうか?出来たら反面教師としてほしい


極めて衝撃的なラストだけに、様々な考察ができると思う。黒人は襲わなくなったが、今度は白人を襲うようになったというのが、もっともありそうな解釈だろう。しかし別の解釈も可能ではないか?飼い主から黒人を襲うように躾けられた白犬が、それが間違いだったと理解したら、どんな行動をとるだろうか?これまでの自己の否定は、それをもたらした飼い主の否定につながらないか?そして最後で登場した飼い主は、恰幅がいい老人で眼鏡をかけていたが、それはカラザスの容貌のそっくりだ。もし、白犬が誰かを襲うという躾から逃れられず、飼い主を襲う事で躾から逃れようとしたのならやりきれない。
これまでずっと“白犬”と書いてきたが、実は本作で最後まで白犬の名前は明らかになっておらず、ジェリーもキーズも、そして飼い主も名前で呼んでいない。それは飼い主が間違った事を教えると、犬は生涯それから逃れることは出来ず、どの犬にも起こりうることだと訴えているのかもしれない。