呪いの館 血を吸う眼(1971年)監督 山本迪夫 主演 岸田森

 

富士見湖畔のコテージに、妹の夏子と二人で住んでいる中学教師の柏木秋子は、5歳の時に見た悪夢が現在でも気になっていた。ある日、悪夢に見た異様な眼を持つ男性が現れて秋子を襲い、妹の夏子も男性の術中にはまって手先となる。この事態を解決する手がかりは悪夢にあり、失われた記憶を恋人の佐伯の催眠療法によって辿った秋子は、悪夢に現れていた洋館を共に訪ねる。そこで、男性の正体が吸血鬼であり、秋子を花嫁に迎えるために彼女が成人になるまで待ち続けていたことが明らかとなる。

 

新しい東宝の映画路線として前作「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」ヒットさせた田中文雄は、かねてからの念願だった、ハマー・プロの「ドラキュラ映画」の日本版を狙った本作が製作され、これもヒットしたことで、「血を吸うシリーズ」と呼ばれる今日までカルト的人気を誇るホラーシリーズが制作された。

シリーズ中最もバランスが取れた本作だが、主人公の秋子を演じる藤田みどりに、主役として映画を引っ張る力に欠ける気がした。人物設定も分かりにくく、設定では中学校教師となっているが、作中で勤務描写はなく都心を離れた湖畔のコテージに妹と二人で住み、犬を散歩させたり、近所で貸しボート店をやっている高品格に家の修理を言いつけたり、昼間に妹と東京に遊びに行ったり生活感が乏しい。だから、てっきり親の遺産で食っていると思っていた。そのせいもあってか、感情移入しがたい。むしろ妹の夏子を演じる江美早苗の方が、キャラははっきり立っていて魅力を感じる。表面的には姉思いの妹だが、実は出来のいい優等生タイプの姉に対して、コンプレックス抱えていたという屈折さがいい。終盤になって夏子が生まれ親の関心が妹に行くことを恐れた秋子が、5歳の頃の悪夢で親の関心を呼び戻したことが仄めかされるが、そのあたりを中心に据えて姉妹の葛藤を描いていれば、秋子のキャラも立ったのに。吸血鬼映画で吸血鬼は男なのに、犠牲者はいつも若い女性。最初は怯える女でも、血を吸われると喜悦の感情を露とする。この事から、吸血行為はセックスの暗示と言われている。こう考えると夏子が岸田森に血を吸われて以降、姉に感情が直球に表に出るようになったのは意味深だ。

終盤に秋子の幼少期の体験を追って能登へ向かい、そこで吸血鬼の父親の残した手記から、事件の真相が明らかとなるが、吸血鬼も望んでなったわけでないことが判明する。その点では彼もまた、悲しさと寂しさを抱えていたことになる。吸血鬼の父親は大滝秀治が演じていたが、メイクが凄すぎて気が付かず、見直しても分からなかった。

本作を大成功に導いた最大の功労は、吸血鬼を演じた岸田森によるところが大きい、と言うかほとんどだろう。色白でどこか無機質な印象を持たれ、知的で優美で品がある一方で、狂暴で残忍さを表現できる。更に影があるから悲哀も表現できる。まさに人でありながら人でない、悲哀のあるモンスターを演じるための俳優といった風情。円谷プロをはじめ特撮ドラマへの出演が多く、本人も「自分は円谷育ち」と述べていた。長身の印象があるが、身長は170センチ程度で当時でもそれほど高いほうではなく、厚底の靴を履いて演じていたという。当初田中文雄は外国人との設定だったので、岡田眞澄を推していたがスケジュールの都合がつかず、監督の山本が推した岸田森が起用された。ちなみにヒロインの藤田みどりはのちに岡田真澄と結婚することになるのは皮肉だ。

「血を吸う」シリーズは、日本の怪奇映画を怪談からホラーへと変化させたシリーズと言っていいが、その中でも抜群の魅力を持ったのが本作だ。その魅力は今日でも色あせていない。

余談だが、中盤で吸血鬼に襲われた桂木美加演じる患者が、高橋長英が勤務する病院に担ぎ込まれるが、この時来ているネグリジェが超ミニ。美脚を惜しげもなく披露している。桂木と言えば「帰ってきたウルトラマン」の丘隊員役が有名だが、あちらでも美脚を披露して欲しかった。