江東区の庭園のあるところだ。
国家ビジョン研究会というシンクタンクの教育分科会の会合があり参加した。
日本再生には経済再生と教育再生が肝になるので非常に重要な問題だ。
教育改革とは、ほとんどの方々が学力向上をイメージされるが、僕は外国滞在期間が8年もあるので、本当に実感するが、日本が日本として発展してきた大きな原動力はその日本の道徳力にある。
勤勉であり、判断が全て私利私欲ではなく、広く社会のためになっているからだ。
そらビジネス成功しまっせ。
近江商人の三方良しの精神(売り手、買い手、そして社会全体が良くならなければ商売とは言えない)も超日本的だ。
ところが、戦後アメリカ占領軍によって書かれた教育基本法は日本をふぬけにするためのものだった。
まぁ戦争に負けるってことは日本の強い部分を削がれるわけで。
今の日本が混迷してきている大きな要因の一つとして道徳の欠如があげられる。
会社はオーナーが儲けるためであり、株は人を騙してでも儲けるものであり、子供が大人の言うことを聞かず、大人が子供の命を絶つ。
おじいちゃんおばあちゃんの面倒を見ず、ご飯は残し、好き嫌い激しく、飽きたら何でもすぐ捨てる。
使い捨て、便利さ、人間関係の希薄さ、自分さえ良ければ、先ず自分から。
個人の主張、個人主義、個人個人。
そらね、責任持たない個人の主張だけやってる国は「わがまま」っちゅうもんで、国滅びますわ。
日本には教育勅語があった。 素晴らしいものだ。
親を大事にし、友達を大事にし、夫婦は和をもって円満とし、人を愛し、自己を謙遜し、自ら鍛錬し、勉学に励み、徳を積み上げ、社会の役に立つことを責務とし、法を遵守し、いざという時には勇敢に国を守る。
人として当たり前のことを当たり前にしようという話だ。
今の日本人は全てのことに保身の言い訳をし、いちゃもんつけるようになっているかもしれない。
価値観はひとそれぞれとか。
ならぬものはならぬのですたい!
江戸時代の会津藩の掟には
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ。
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。
三、虚言を言うことはなりませぬ。
四、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
五、弱い者をいじめてはなりませぬ。
六、戸外で物を食べてはなりませぬ。
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ。
ならぬことは、ならぬものです。
という文章。
これを会津藩ではみんな言えたそうで、現代版にあいづっこ宣言というのがある。
あいづっこ宣言
一、人をいたわります。
二、ありがとうごめんなさいを言います。
三、がまんをします。
四、卑怯なふるまいをしません。
五、会津を誇り年上を敬います。
六、夢に向かってがんばります。
やってはならぬやらねばならぬ、ならぬことはならぬものです。
と。
このような道徳基礎となるべきものが我が国全体には不足しているのが現状。
道徳教育、つまり徳育を教育再生の柱に置かなければ、いくら知識をつけた人材が出てきても国や社会、そして世界全体に貢献できる使い方をしない。
自分のため知識を使う輩が多くこの国に存在する。
知識は人のために使ってなんぼ。
教育の根本の改革は徳育なのだ。
これを科学的に「命の摂理」あるいは「自然の摂理」から人としてのあるべき姿を説いていこうという壮大且つ有意義なまとめをこの国家ビジョン研究会はしてきた。
道徳教育を宗教学や表層的な道徳で片付けるのではなく、宇宙科学や生命科学の見地に基づいて人としてのあるべき姿を説いていく形での道徳教育の浸透を図る。
下村文科大臣とは協議を重ねてきており、下村博文氏も既に道徳教育重視路線で走り出している。
今の自民党の教育改革はどちらかというと歴史認識の部分が大きいが、歴史は認識の仕方や見方を教えれば良い。
誰が正しいとか、んなもんは戦勝国が決めとる。
本当にそうなのか? 誰がそう言っているのか? 事実と史実の違いは? など客観的見地から分析ができ、そして洗脳されるのではなく、そこから何を学べるのかを学習したらいいのだ。
大事なのは人の行動の基礎となる道徳指針。
どのような価値観、人生観、あるいは死生観でこの世の中に生まれ、自分の役割を果たしていくのか。
大事なこってす。
僕も非力ながらお手伝いさせていただこう。
教育は国家百年の計。
時間がかかる。
今着手しても遅すぎるぐらいだ。
でも、やらねばならぬですな。
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