今宵のレコードアルバム 『あゝモンテンルパの夜は更けて』 | 恐悦至極に存じ奉り候

恐悦至極に存じ奉り候

鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。
が、血の流れたときは、悲劇は終わってしまったあとなのである。
by三島由紀夫

 

 

 

先月、4月4日に亡くなられた、四宮正貴氏。

万葉集の研究者、四宮政治文化研究所主宰。

 

 

 

 

 

名前を聞いてピンとこない人は、

『朝まで生テレビ』で

失礼な物言いをする田原総一朗に

ブチ切れて一喝した人、

といえば分かるだろうか。

 

 

 

 

 

30年近く前…

ある宴席で四宮氏が、

『ああモンテンルパの夜は更けて』

を歌ったところ、

同席していた野村秋介氏が痛く感激し、

 

「四宮君はモンテンルパに行ったことがあるのか?」

「いいえ、ありません」

「じゃあ連れて行ってあげよう」

 

ということでフィリピンに同行したという。

 

 

 

 

 

 

 

いい歌だからと、

大の大人たちが現地まで行ってしまう…

 

『ああモンテンルパの夜は更けて』

とは、どんなドラマがある歌なのか…

 

 

 

終戦の7年後、フィリピン。

モンテンルパのニュービリビット刑務所には

BC級の戦犯とされる多くの日本軍人が収容され

順番に処刑されていく状況にあった。

 

それを知り、

モンテンルパに手紙を書いたのが

気骨の歌手、渡邊はま子だった。

 

 

やがて、

自分たちで作詞作曲した歌を

是非、渡邊はま子に歌ってほしいと

2人の死刑囚から譜面が送られて来た…

 

 

 

 昭和27年6月のこと、このやるせない心を抉るような歌が大ヒットした。

「何の歌だろう?」いぶかった人々も直ぐに知ることとなった。

この歌はフィリピン、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所の死刑囚の作った歌だったのだ。

作詞がB級戦犯死刑囚:代田銀太郎元大尉、作曲がB級戦犯死刑囚:伊藤正康元大尉、歌ったのが「支那の夜」や「何日君再来」などを歌った渡邊はま子。

この歌はモンテンルパ刑務所の教誨師加賀尾秀忍から送られてきたものだった。


戦後7年も経過し、サンフランシスコ講和条約から1年もたって、A級戦犯も免責されんとしている時、まだ異国で処刑されていくBC級戦犯がいることを知った渡邊はま子は驚愕し、レコード化に奔走して、遂に大ヒットさせたのである。

これにより、自分の生活に追われていた日本人の多くが悲愴な現実を知ることとなり、集票組織の無かった当時としては異例の、500万という助命嘆願書が集まったのであった。


 戦時中の慰問で自分も戦意を煽ったためと感じた渡邊はま子は、どうしてもモンテンルパに行って謝りたいと思い、渡航の困難だった時代に手を尽くしてフイリピンへ渡った。

当然フイリッピン政府からヴィザなど降りない。

単に戦犯の慰問というだけでなく、終戦時には宣撫慰問の途中で虜囚となり一年も収容所に入っていた女性である。

許可など出る筈もなかった。

 

それでも渡辺はま子は香港に向けて出発して行った。

香港経由でフィリピンに強行入国しようというわけである。

たとえ逮捕されて、戦犯と同じ刑務所に入れられようとも・・・


 昭和27年12月24日、歌手・渡辺はま子の歌がモンテンルパのニュービリビット刑務所の中を流れた。

熱帯の12月。

40度を超す酷暑の中で、渡辺はま子は振袖を着て歌った。

もう随分と長い間見たこたことがなかった日本女性の着物姿は、死に行く者への別れの花束だった

この歌は、この刑務所の死刑囚達が作詞作曲したものである。

この歌が流れると会場の中からすすり泣きが聞こえた。

会場にいたデュラン議員が、当時禁じられていた国歌「君が代」を「私が責任を持つ、歌ってよい」と言った為、全員が起立して祖国日本の方に向い歌い始めた。

多くの人は泣いて声が出ず、泣き崩れる者もあったようだ。そして、この「ああモンテンルパの夜は更けて」は、これらの人々を救い出す事になったのである。


 昭和28年5月、教誨師加賀尾秀忍のもとに渡辺はま子から一つのオルゴールが届いた。曲は「ああモンテンルパの夜は更けて」だった。

オルゴールの音色は心を抉るような響きをもっていた。


 そのころ、加賀尾はやっと時のキリノ大統領に面会する約束を取り付けることが出来た。

初対面の挨拶と、面会の時間を貰えたお礼の後、加賀尾は黙って大統領に例のオルゴールを差し出した。

加賀尾の涙ながらの助命嘆願と、哀訴の言葉を予想していた大統領はいぶかったが、オルゴールを受け取って蓋をひらいた。

流れ出るメロディー。

暫く聞いていた大統領は「この曲はなにかね?」

加賀尾師は、作曲者がモンテンルパの刑務所の死刑囚であり、作詞をした者もまた死刑囚であることを語って、詞の意味を説明した。

尚もじっと聞いていたキリノ大統領は、漸く自身の辛い体験を語り始めた。


 大統領自身も日本兵を憎んでいたし、日米の市街戦で妻と娘を失っていたのだった。

私がおそらく一番日本や日本兵を憎んでいるだろう。しかし、戦争を離れれば、こんなに優しい悲しい歌を作る人たちなのだ。戦争が悪いのだ。憎しみをもってしようとしても戦争は無くならないだろう。どこかで愛と寛容が必要だ
 死刑囚を含む全てのBC級戦犯が感謝祭の日に大統領の特赦を受けて釈放され、帰国が決まったのは、翌月の6月26日のことだった。


 横浜の埠頭で帰国の船を待ちわびる群衆の中に、渡辺はま子の姿があった。

 

『八洲秀章のMelody日本の抒情歌』

 

 

 

キリノ大統領と加賀尾氏

 

 

キリノ大統領に贈られたオルゴール

 

 

戦犯にされた日本軍人と加賀尾氏

 

 

横浜港に帰還した白山丸

 

 

 

 

 

ニュービリビット刑務所の慰霊碑にて、

四宮氏が、

『ああモンテンルパの夜は更けて』を歌った。

 

野村氏をはじめそこにいた全員が

感極まり、涙したという。

 

 

 

 

 

 

ドラマ 薬師丸ひろ子

 

 

 

オリジナル

 

 

 

歌:渡邊はま子 宇都美清

作詞:代田 銀太郎

作曲:伊藤 正康

 

モンテンルパの 夜は更けて
つのる思いに やるせない
遠い故郷 しのびつつ
涙に曇る 月影に
優しい母の 夢を見る

燕はまたも 来たけれど
恋しい吾が子は いつ帰る
母の心は ひとすじに
南の空へ 飛んで行く
さだめは悲しい 呼子鳥

モンテンルパに 朝が来りゃ
昇る心の 太陽を
胸に抱いて 今日もまた
強く生きよう 倒れまい
日本の土を 踏むまでは

 

 

 

 

曲誕生まで

1952年(昭和27年)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから衝撃的な事実を知らされた。同国モンテンルパ市のニュービリビット刑務所には、多数の元日本軍兵士が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞きかされた。第二次世界大戦後7年も経つのに、なお刑を受刑し続け、中には死刑を待つだけの人達も居ると聞いた彼女は、銀座鳩居堂からを同刑務所宛に送った[1]

1952年6月、神奈川県鎌倉市にあった渡辺はま子の自宅に、一通の封書が届けられた。その封書の中には、楽譜と短い手紙が入っており、その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。二人はフィリピン・マニラ市郊外のモンテンルパ市の丘にあった「ニュービリビット刑務所」で、戦争犯罪者としてマニラ軍事裁判で死刑判決を受けていた人物であった。

作詞の代田銀太郎は、元フィリピン憲兵隊少尉。作曲の伊藤正康は、元大日本帝国陸軍将校。「モンテンルパの歌」は、刑務所で収容されていた日本人111名の、日本への望郷の念を込めた曲であった[2]

封書を受け取った渡辺は、早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。題名には色を付けられ『あゝモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた[3]

渡辺と宇都美が歌った『あゝモンテンルパの夜は更けて』のレコードは、20万枚を売り上げたヒット曲となった[4]

『あゝモンテンルパの夜は更けて』が大ヒットしていた1952年(昭和27年)12月25日、渡辺がニュービリビット刑務所を訪れた。吹き込み以来、刑務所慰問の決意を固めていた渡辺が、国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった[5]

渡辺来訪時、作詞の代田銀太郎と作曲の伊藤正康は開演前に対面し、歌を作ってもらった事に対し礼を述べた。

慰問のステージは、ドレス姿の渡辺が「蘇州夜曲」などの往年のヒット曲を歌い、ステージ終盤に『あゝモンテンルパの夜は更けて』は披露された。この曲を聞いた108名の収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、またある者は日本への望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員起立しての大合唱となった。作詞者の代田も、作曲者の伊藤も涙を流していた[6]

その後、この歌のヒットや渡辺はま子を始め、加賀尾秀忍ら関係者の努力が、当時のフィリピン政府当局を動かし、1953年(昭和28年)7月、すでに同曲をおさめたオルゴールを加賀尾から贈られていたフィリピン共和国大統領エルピディオ・キリノの独立記念日特赦によって、戦争犯罪者108名全員の日本への帰国が計られ、実現した。

(Wikipedia)