こんばんは 吉村龍泉です。
じょはりの 「鏡」 と 「窓」 がありますが、
まったく違うものなのです。
まず、じょはりの鏡ですが、正式には浄玻璃の鏡と書きます。
浄玻璃の鏡とは、地獄の審判の閻魔(えんま)が亡くなった者を
裁くときに使用する善悪を見極める鏡のことです。
閻魔に出会うのは、亡くなって五七日目で、地獄道か餓鬼道か
畜生道か修羅道か人間道か天上道か(六道輪廻)のいずれかの
行き先を言い渡されます。その時まず、閻魔が帳面を見ながら罪状を
云われるのですが、その帳面が閻魔帳です。
閻魔帳には、亡くなった者の罪だけでなく、善い行いも書いています。
そして、本人が弁護することもできます。でも、嘘をついたことがわかると
閻魔から舌を抜かれてしまいます。この嘘をついたかどうかを調べる手立てが、
浄玻璃の鏡なのです。
この鏡には、亡くなった者の生前の一挙手一投足が映し出され、
いかなる隠し事もできない、生きてるうちの事はすべて明らかに
されてしまう。自分の生き様が、本人の人生のみならず、世間に、
他人にどのような影響を及ぼしたか、またその人間のことを
他人がどんな風に思っていたかということまでも映るというのです。
またこの鏡は、亡くなった者を罰するためではなく、亡くなった者に
自分の罪を見せることで反省を促すためのものとも云われています。
「閻魔と地獄太夫図」 浄玻璃の鏡を覗き込む閻魔の姿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
では一方、じょはりの窓とは、どういうものなのでしょうか。
これは、サンフランシスコ州立大学の心理学者ジョセフ・ルフト氏と
ハリー・インガム氏が提案した「人間同士が円滑なコミュニケーションを
進めるために考案されたコミュニケーション分析のモデル」のことを
後に2人の名前を組み合わせて『ジョハリの窓』と呼ぶようになったのです。
ジョハリの窓は、横軸に自分が知っていることと知らないこと、
縦軸に他人が知っていることと知らないことをとります。
そのことによって、自他ともに知っている自分、自分が知らない他人が
知っている自分、自分が知っていて他人が知らない自分、自他ともに
知らない自分に分類される内容に気づき、理解することができます。
このことが、主観的・客観的に見た自分を知ることができ、
また比較することで、自己の成長につながり、
他人との円滑なコミュニケーションを取れるようになるのです。
1.開放
自分も他人も知っていることで、お互いに共有している公の情報。
2.盲点
自分が気づいていない癖や行動等を通じて、相手が自分のことを
推察している領域。なかなか自分の存在を認める自体に困難を
伴いますが、認識することによって自分への理解がより深まる。
3.隠している・隠れている
公になっている情報に対してのプライベートな自分。この部分が
大きいと本当の自分を押し殺して生活しているので、息苦しいかも。
4.未知
自分も他人も知らない未知なる領域で、知られざる潜在能力の
発見が起こる領域。
ご興味のある方は、ジュハリの窓に関する本などを読んでみてください。
生前のうちに、「ジュハリの窓」を使って、人間関係をよくしておけば、
あの世で、閻魔様に裁かれた際、「浄玻璃の鏡」で自分を見られても、
少なくとも畜生道や餓鬼道、ましてや地獄道に行かされることはないでしょう。