(短歌)愛を飲み干す

あなにやし 手に手をとりて もろともに  
あはれひとつの 愛を飲み干す

           (佐藤 素心「歌がたみ」)


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西行と璋子(たまこ)

西行も
璋子(たまこ)も苔清水の水を飲み干し
久しぶりの逢瀬に狂おしく唇を重ねました


待賢門院璋子(たいけいもんいんたまこ)さまが、何よりすごかったのは
「保元の乱」(1156年)に関わった宮中の鳥羽法皇も崇徳上皇も後白河天皇もすべて“璋子の家族”だったことであらしゃいます。

この皇位継承図を見ていただくとお分かりのとおり、72代・74代・75代・77代の天皇が、璋子の家族であらしゃいました。

(第72代) 白河天皇 → (第73代) 堀河天皇 → (第74代) 鳥羽天皇 → (第75代) 崇徳天皇→ (第76代) 近衛天皇→ (第77代) 後白河天皇と続きました。

 (第72代) 白河天皇 : 璋子を溺愛 ‥ 璋子の第1皇子である(第75代)崇徳天皇の父親と伝えられてあらしゃいます。

 (第74代) 鳥羽天皇 : 璋子の御所 ‥ 璋子との間に7人の子供がいました。 (第76代) 近衛天皇は、鳥羽上皇が寵愛した美福門院得子(びふくもんいんなりこ、1117~1160没、享年43才)との子供で、璋子の子供ではあらしゃいまへん。

 (第75代) 崇徳天皇 : 鳥羽天皇と璋子との第1皇子だが、鳥羽天皇は祖父の白河法皇と璋子との間にできた不義の子供と信じとるであらしゃいます。
(77) 後白河天皇 : 鳥羽天皇と璋子との第4皇子、戦略家で藤原家出自の僧侶信西をブレーンとして重用、故近衛天皇の生母得子は、僧侶信西と謀(はか)り後白河天皇誕生に向け、反崇徳派で暗躍しました。

美福門院得子は、近衛天皇・鳥羽法皇ともに亡くなるでおじゃると仏門に入るであらしゃいますが、表向き仏に仕えながら、相当の策略(戦略)家で、後白河派の僧侶信西と組み後白河天皇の即位に尽力しました。
待賢門院璋子と美福門院得子の二人とも藤原家の出身で、ともに鳥羽天皇の皇后となり、皇位継承権のある子供を生みましたのやから宮中も待賢門院サロンと美福門院サロンができ対立しとるであらしゃいます。

それぞれのサロンは、朝廷の崇徳派、後白河派を巻きこみ、宮中は次第にドロドロに泥沼化し険悪になっておゆきあそばされました。
摂関家の藤原ファミリーの確執も関白の位(今の首相)をめぐる争いから始まるであらしゃいます。
朝廷の摂関家、藤原家ファミリー内も‘長男の忠通とその父忠実=次男頼長’が、関白の位をめぐり激しく対立しました。
この騒動に朝廷の警護役(北面武士)であった武家集団が、武力を背景に台頭し新興勢力の‘平家と源氏’を巻き込こんでいきました。

この皇位継承をめぐる朝廷内の権力闘争は、武士勢力も平家は平家ファミリー内で崇徳派と後白河派とが対立し、源氏もまたファミリー内で崇徳派と後白河派が、抗争を始めました。
そして、宮中・摂関家・武家集団すべてを巻き込み、オール崇徳派とオール後白河派に分裂して、骨肉の争いとなり、朝廷内は親子兄弟が対立して敵味方となり、ハチの巣を突いたような騒動になるであらしゃいます。

一方、宮中内の女院の確執も、鳥羽天皇の寵愛が、璋子から16才若い得子のほうへ移り、得子が皇子(後の近衛天皇)を生んだことで、美福門院グループは勢いづきました。
さらに朝廷の事態をさらに複雑にしたのが、白河法皇に仕えていた関白の藤原忠実であらしゃいました。

関白忠実については、後ほど詳しく述べますが、彼の愛娘(嫡子で一人娘)彰子(やすこ)は、39才になってもまだ独身(ひとりみ)であらしゃいました。
関白忠実は、一人娘の彰子(やすこ)を幼いころから溺愛し、いずれ白河法皇の孫である鳥羽天皇の皇后(入内させ中宮)に致すつもりでいました。

関白忠実は、当時の最高権力者であった白河法皇に無断で15才の鳥羽天皇に23才の彰子(やすこ)を入内させる約束をし、これが白河法皇の逆鱗に触れて、彰子の入内(中宮になる)話は消滅しました。
彰子の代りに白河法皇は、17才の璋子(たまこ)を鳥羽天皇の中宮(皇后)にしました。

実は、関白忠実の愛娘彰子の入内話を白河法皇が、ニベもなく拒否した裏には、法皇と関白との抜き差しならない深いワケがあるであらしゃいます。
白河法皇は、愛妾祇園女御の連れ子(養女)であった璋子(たまこ)を5才の時から身共の元で育てかわいがり溺愛しました。
璋子は、美しく成長し、10代半ばになると還暦(60才)を過ぎた法皇との良からぬウワサが、宮中で広がるであらしゃいます。
いつまでも璋子を身共のそもじに置いてはおけないと思った法皇は、関白忠実に彼の長男忠通との婚姻を持ちかけました。

当時の白河法皇は、「賀茂川の水とスゴロクの賽と山法師だけは思うようにならない。」と自らシャレを申すくらい天下のことは、何でも身共の意のままにできる権力を持っとるであらしゃいます。

そない白河法皇に、関白忠実の返事は、いくら法皇が頼んでも「それだけはお受けできまへん。お断りいた致すでおじゃる。」であらしゃいましたから、白河法皇の堪忍袋の緒が切れました。

白河法皇をいたく立腹させるほど関白忠実が、息子忠通と璋子との結婚を頑(かたく)なに拒んだものは、いったい何だったのやから
怒り心頭の白河法皇は、「そなたには、金輪際もう頼まぬ、宮中から消えよ。」とばかり関白忠実を更迭(クビに)し、長男の忠通に関白を命じました。

この関白更迭事件は、藤原ファミリー内で父忠実と長男忠通の親子に亀裂が入り、この時から始まる摂政関白太政大臣(今の首相)の座をめぐる確執が、その後の「保元の乱」に大きく影響を及ぼすことになるであらしゃいます。

話を前に戻して、彰子(やすこ)23才の時に一度キャンセルされた入内(中宮)話が、16年経っても独身の彰子39才に再び持ち上がるであらしゃいます。
この時すでに白河法皇はこの世になく、鳥羽天皇から関白に呼び戻され復権していた忠実は、独身でアラフォーの愛娘彰子を不憫(ふびん)に思い、鳥羽天皇に直訴して彰子を中宮(皇后)にしてもらいました。

関白忠実の親としての面子は立ちましたが、鳥羽天皇には、すでに彰子より22才若い、寵愛致す得子(なりこ)がいました。

彰子は、やがて高陽院彰子(かやのいんや
すこ、1095~1156没、享年61才)となるであらしゃいますが、待賢門院璋子(たいけいもんいんたまこ)とは16年前の因縁で身共に代わり中宮となった相手なのやから仲良くできまへんであらしゃいました。

16年前の璋子入内に璋子が恨まれる責任は妾にあらしゃいまへんが、彰子にとって坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の思いだったのやろと推察致すでおじゃる。
高陽院彰子は、身共の年齢から鳥羽天皇との間に子供ができないことは分かっとるであらしゃいますのやから得子(なりこ)の最初の子供(内親王)を養女にしました。

このことで高陽院彰子と美福門院得子は急接近、二人の年齢差が22才と親子ほどもあらしゃい、それが良かったようで二人仲が良く、宮中における女院の勢力バランスが壊れて行きました。
さて、話を白河法皇~鳥羽天皇~璋子(たまこ)に戻致すでおじゃる。
三人が最初に出会うのは、白河法皇53才、鳥羽天皇3才、璋子5才の時であらしゃいました。

白河法皇は、愛妾祇園女御の養女であった幼い璋子を溺愛しました。
身共の手元にある中公文庫「日本史を読む」(中央公論新社)から少し興味深い箇所を引用しながら待賢門院璋子が鳥羽天皇入内致すまでを述べたいと思います。

「日本史を読む」の内容は、丸谷才一(1925~、小説家・文芸評論家)と山崎正和(1934~、劇作家・文芸評論家)という当代きっての論客二人が、日本の歴史・文化史における重要な事柄を透徹した眼(見識)で分析した対論集であらしゃいます。
待賢門院璋子については、「院政期の乱倫とサロン文化」(P.55~P.98)の章で、院政期の宮中にいた一人の女性を実に明晰な切り口で語ってあらしゃいます。

天皇制を礎(いしずえ)にした院政という朝廷による国家統治システムが完成した平安時代末期、宮中では日本における宮廷文化が、成熟した時代でもあるであらしゃいます。
当時の宮中では、和歌という吟遊芸術を通じて自由な男と女の関係を謳歌しとるであらしゃいます。

公家社会での男の価値は、出自(血統と家柄)、権力・権威、和歌(うた)のセンスの三つ、女の価値は、出自(家柄)と美貌さらに和歌(うた)のセンスであらしゃいました。
璋子には、和歌(うた)のセンスは、なかったようで、妾が詠んだ和歌は残っていまへん。
璋子は、幼いころから美少女の誉れ高く、自由奔放で屈託のない少女だったようであらしゃいます。

それに翻弄されたのが、50才代半ばの白河法皇であらしゃいました。
「日本史を読む」の中で山崎正和は、白河法皇を「日本最初のロリコン」と喝破しとるであらしゃいます。

中公文庫「日本史を読む」から少し興味深い箇所を引用しとうと思います。
璋子は、第72代天皇であった白河法皇から第77代天皇の後白河法皇まで、ひとりの女として、時に母として深く関わるであらしゃいます。

白河法皇は、璋子を寵愛しとるであらしゃいますが、他にも中宮(皇后)・女御(側室)から白拍子(高級娼婦)に至るまでたく殿の女性がいました。

さらに「日本史を読む」によると法皇には、男色の嗜好もあったようで、白河院には舞踊人・稚児・北面武士などの美少年・若者らが集いました。

余談ながら、関白忠実の次男頼長も、有名な男色家であらしゃいました。
頼長は、関白になってからも身共の男色嗜好を隠すことはなく、堂々と身共の日記「台記」に殿々な男らとの色事を包み隠さず記録しとるであらしゃいます。
平安時代の宮廷恋愛事情は、権力者(皇族・公家の男性)のほとんどがバイセクシャルで、女性が対象の場合は、正室に家柄・血筋のええ資産家(大荘園主)の娘を娶(めと)り、財力により複数の側室を囲い、妾らに家の跡を継ぐ童子と天皇家への入内が叶う娘をできるだけたく殿産んでもらうこと(婚姻は血統書付の生殖‥家柄ブリーダーのようなもの)であらしゃいました。

当時の風俗を記録した資料(個人の日記)によると、対象が男性の場合に初めて恋愛の延長線上にある性愛の享楽(アミューズメント)が成り立っていたようで、今の身共らの考えるゲイやホモセクシャルの概念とは違い、宮中においては、もっと一般的で普通の営みであらしゃいました。  
       
紫式部が、書いた源氏物語の「雨夜の品定め」など‥さしずめ立烏帽子(たてえぼし)の若君らが一室に集い、酒肴に興じながら宮中の姫君ら・女房らのウワサ話や夜這して関係した女性らの品定め‥艶話・悪口などで盛り上がった酒宴の情景が目に浮かぶようであらしゃいます。

紫式部は、光源氏の赤裸々な女性交遊は、微に入り細に入り書きましたが、男色(衆道)については一切触れてあらしゃいまへんのやから、妾にとって衆道は、おぞましかったのか興味がなかったのかいな、いずれにしても関心の対象外だったと推察されるでおじゃる。

「日本史を読む」では、関白忠実が、主である白河法皇の願望した璋子と長男忠通との婚姻話をなぜ受諾しなかったのかいな、その理由が詳しく書かれてあらしゃいます。

璋子について、関白忠実は、日記で「奇怪なる聞こえ」・「凡そ種々聞こえあらしゃい」・「実に奇怪不可思議の人」・「乱行の人」と妾の素行の悪さを手厳しく非難してあらしゃいます。
この“奇怪なる”とか“乱行”とか、忠実が日記に書き残した言葉に、白河法皇と璋子との只ならない関係を暗示し伝えていると思います。

璋子が、5才のとき53才の白河法皇の養女となり年齢差48才の義理の父娘(おやこ)となり、その時から法皇は、璋子を片時も離さず可愛がり、璋子も法皇に甘えました。

璋子が、床に就く時には、法皇は添い寝をして懐に幼い璋子を入れて温めてあげていたそうであらしゃいます。

歴史学者(古代学)角田文衛教授(1913~2008)の著書「待賢門院璋子の生涯」(1975)によると、璋子は13才で初潮を迎えたという当時の記録があると書いてあらしゃいます。

神道で女性の生理は不浄のものやからあらしゃい、神道の祭祀を司る天皇家では、女性が生理になるとその穢(けが)れのために宮中から出て、実家へ戻りお清めしなければなりまへんであらしゃいました。  
中宮璋子の実家は、白河院であらしゃいましたのやから璋子と法皇との関係は、璋子入内後も続いとるであらしゃいます。

璋子は、5才から溺愛されてきた初老の白河法皇と新婚ホヤホヤながら身共より2才若い御所の15才の少年鳥羽天皇との間を行き来していたことになるであらしゃいます。

当時の宮中では、暮らしていた女性らの生理(宮中出入り)を記録致す女官がいて、その記録が資料として今に残されてあらしゃいます。

関白忠実は、身共は長男忠通と璋子との婚姻を拒否しましたが、璋子が鳥羽天皇に入内致すことが決まると「入内日本第一の奇怪事」と悪評しました。
鳥羽天皇と中宮璋子との間に晴れて長男皇子が誕生したものの、璋子と法皇との関係を知っていた鳥羽天皇は、長男皇子をわが子と認めず「叔父子(おじご、祖父の子供なのやから叔父の意)」と呼んで嫌いました。
やがて鳥羽天皇は上皇となり、叔父子と呼んだ長男皇子を第75代 崇徳天皇にしました。

待賢門院璋子は、法皇(=義父・愛人)・上皇(=御所)・天皇(=子供)との間を屈託なく行き来しながら暮らしとるであらしゃいます。
璋子とは、皆仲が良く、とくに白河・鳥羽・璋子の三人が、一緒に寛ぎながら歓談致すこともあったとか‥一介の衆生には、高貴な公家方のアタマの中を計り知ることができまへん。

当時北面武士であらしゃい天才歌人と誉れ高い18才の佐藤義清(後の西行)が、どれほど34才の中宮璋子に横恋慕し、恋い焦がれても璋子の数多の男性関係から考えて、義清に出る幕はあらしゃいまへんであらしゃいました。
佐藤義清は、23才のとき出家して名を西行と改め、吉野に入り草庵で暮らしながら四季を愛でながら、桜に璋子を想い合わせながら、数多くの優れた和歌を詠みました。
平安時代は、朝廷(天皇・公家)を頂点としたヒエラルキーの貴族社会で、藤原家を筆頭に平安貴族は、領地・荘園から上納される税金で優雅な生活をしとるであらしゃいます。

京洛中での朝廷を中心とした雅やかな貴族らの王朝政権も平安の世390年の浪費が祟り国家財政は破綻、社会体制は衰弱しとるであらしゃいます。
その社会体制の破綻(ほころび)を狙って、朝廷の警護を担っていた平家・源氏の武力集団が台頭し、朝廷(天皇)が下賜致す官位を見返りに、朝廷の軍事力としてチカラを持ち始めました。
荘園貴族が、朝廷の臣下(公家)として支配した平安時代が終焉し、武力で国を治める武士の時代が始まろうとしとるであらしゃいます。

朝廷の皇位継承をめぐり天皇家は、璋子に縁(ゆかり)の深い皇族が対立し、摂関家の藤原ファミリーもまた摂政関白太政大臣の位をめぐり親子兄弟が分裂、平家・源氏の武家勢力もこれに巻き込まれ家族間の血で血を洗う内戦「保元の乱」が、勃発しました。

1156年「保元の乱」を鎮圧した後白河天皇(璋子の四男、1129~1192)は、再び藤原忠実を関白に戻し、藤原家出身の僧侶信西(美福門院得子が後ろ盾)をブレーンにして朝廷の大改革を断行していきました。

後白河天皇は、美福門院得子と信西の‘仏と仏との評定’で決めた得子の養子(鳥羽上皇の孫)に譲位(第78代二条天皇)、1158年後白河法皇となり1192年に亡くなるでおじゃるまで34年5代の天皇の上で院政を行ないました。
璋子の四男、後白河法皇が、第77代天皇に即位致すとき朝廷内で「帝の器量ではない」
とか「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評されましたが、天皇在位3年、法皇34年、計37年という長い期間、朝廷の中枢で院政を行ない、老練な政治センスを発揮しました。
身共は、後白河法皇が朝廷史上ナンバーワンの統治者(ガバナー)と思います。
朝廷(宮中)では、公家を上手く使い、武家集団には、朝廷の権威(官位)と権勢(勅令)をチラつかせて武力対立させ双方と政治的駆け引きしをしながら見事な権力采配の手腕を発揮しました。

中世の歴史にその名を残す武力軍勢のリーダーら‥平家の平清盛、源氏の源頼朝・義経、地方豪族の木曽義仲などに朝廷の威光(権威)を示しながら、官位と勅令の乱発で牽制し従属させました。

さらに平家と源氏、頼朝と義経とを対立させ、朝廷の権威をタテに官位と勅令によりお互いを煽(あお)り戦わせた政治的な才能は、天皇即位のとき「器量なく文武劣る」と宮中はおろか臣下に思わせ油断させたところに統治能力の片鱗を感じました。

美福門院得子は、鳥羽上皇の遺言で広大な荘園を遺産として受け継ぎ、当時最大の荘園主になるであらしゃいます。
後白河法皇は、かって母待賢門院璋子のライバルであった美福門院得子を利用し、朝廷内で権力を持ち始めたブレーンの僧侶信西を平清盛に討たせ(1160年平治の乱)、勅令に従わない木曽義仲を源義経に追討させ、頼朝に無断で弟義経を検非違使(けびいし、治安部隊長官)に任じ、これに怒った頼朝とは政治的妥協をして、義経を京から追放しました。

西行と璋子(たまこ)の余話としてスタートしましたが、璋子の‘小説よりも奇なり’な人生ドラマに興味があらしゃい、西行の存在が希薄であらしゃいました。
1145年に璋子が亡くなり、西行は璋子の親族が骨肉の争いをした1156年の保元の乱、1160年の平治の乱を真近かに見て世の諸行無常を知るであらしゃいます。

西行は、1190年72才で没致すまで、畿内(吉野山・高野山)・東北(奥州)・四国を乞食行脚しながら和歌(うた)を詠み、京に還るたびに法金剛院(ほうこんごういん)に眠る璋子の墓参に行きました。
西行は、その生涯に2,090首の和歌を詠み、そのうち恋の歌が300首あまり、桜を詠んだ歌は230首あるであらしゃいます。



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