後醍醐天皇の御製に袖もぬれつつ
新葉和歌集より
後醍醐天皇御製
花にねて よしや よしのの吉水の
枕の下に 石(いわ)はしる音
今は よも枝にこもれる 花もあらじ
木のめ春雨 時をしる 比 ( ころ )(82)
芳野の吉水院の行宮におましましける時、
雲井の桜とて世尊寺のほとりに有りける花の咲きたるを御覧じてよませ給うける
ここにても 雲井の桜さきにけり
ただかりそめの 宿と思ふに(83)
吉野の吉水院の行宮にて人々に千首歌めされし次に、
山花といふことをよませ給うける
後醍醐天皇 御製
わが宿と たのまずながら芳野山
花になれぬる 春もいくとせ(109)
おなじ行宮にてよませ給うける御歌の中に 後村上院御製
おのづから ふる郷人のことづても
有りけるものを 花のさかりは(110)
後醍醐天皇
世界遺産「南朝の皇居」(吉水神社)
延元元年(1336)京の花山院より免れた後醍醐天皇が吉野に御潜幸になり
吉水院宗信の援護のもとに当社を南朝の行宮と定められたのである。
吉水院宗信の援護のもとに当社を南朝の行宮と定められたのである。
かくて天皇が当社に第一歩を記されてよりかの悲壮な吉野朝四代57年に渡る血涙の歴史の第一頁が聞かれここに南北朝の対立が始まったのである。天皇はこうしたへき遠の他に憂悶の数年を過されたが、遂に病を得て悲憤の最後を遂げられたのである。
即ち当社はその南朝の御本家に当たり現在吉野朝、唯一の行宮である。
「花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に石走る音」
この有名な御製は今も尚玉座の下に流れ続ける宗々とした瀬古川のせせらぎを聞かれて歌われた御心中むせぶが如く泣くが如く今に琴線にふれるものがある。
現存されている当時の玉座並びに数々の御物を拝観する時そこに神秘的な南朝の哀史が人々の心に想い起される。