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静御前伝説
 
(静御前終焉の地はいずこに?)
 
静御前には、桜吹雪が似合う
 
静御前は鎌倉の「鶴岡八幡宮」で頼朝の前で舞をして、
 
その後どうなったのか?
 
どこでどう過ごして墓はどこにあるのか?
 
静御前のいろいろな伝説は日本各地に残っている
 
静御前がそれほどまで・・・何故?日本人の心を揺さぶるのか?
 
純粋な「無償の愛」の一途な生き様に感動するのだろうか?
 
多くの「日本男性」は、いつの時代も
 
「静御前」の様な女性に憧れている。
 
吾妻鏡や義経記という本によれば、文治元年の冬、雪が積った寒い中を兄、頼朝の追手を逃れて、義経、静御前、弁慶達が吉野に潜入して、この吉水院にかくまってもらったことです。義経は、五日間この地で静御前と別離を惜しみ、吉水書院を惜別の舞台として、静御前の悲しい舞を見ながら逃避の生活を送ったが、追われる者の運命で、山伏の姿に身を替えて悄然として吉野落ちをしなければならず、大峰山をめざして逃げるのですが、大峰山は女人禁制のため静御前は、奥州へ落ちのびる義経を涙で見送りました。

吉野山峯の白雪踏み分けて、入りにし人の跡ぞ恋しき

と十六才の静御前の歌が残されている。あの天下に名高い義経と静御前の大ロマンス『義経千本桜』の本舞台こそ吉水神社なのです。

 
【静御前】


吉野に静御前が来たのは・・今をさかのぼること800年前、
 
ここ吉野山に逃亡者となって現れたのは・・
あの“牛若丸”こと源義経であった。美男美女のの話は・・・哀しい

「歌書よりも軍書に悲し吉野山」・・・・・です。

従う者はわずか弁慶と佐藤忠信他・・数名の家来、
 
そして愛する静御前だけだった。

静御前は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。
母は磯禅師という白拍子(女性が男装をして舞を舞う・・・いわゆる高級娼婦)の祖とされる人物で、母の職業に憧れてかどうかは知らないが静も白拍子である。関係ないが、薙刀の名手だったらしい。
ある時、雨が降らず日照りが続いた。そこで後白河法皇は100人の美女の白拍子に舞わせ雨を祈らせた。99人まで効果がなかったが、100人目の静御前が舞うとたちまち雨雲が現れ、3日間雨が降り続いたという。その事から静御前は法皇から「日本一」の言葉をもらった。
ちなみにその時、源義経が気に入って妾にしたらしい。
その後、義経と共に同行するも義経たちは頼朝から追われる身になっていた。

頼朝が血眼になって探している時・・・・・・・・・・・・・・・、


義経たちは吉野にある格式の高い『吉水院』という僧坊にかくまって貰っていた・・しかしこれより先は「大峰山」・・女人禁制の山。静御前が一行の足手まといになることを知った義経は、吉野山で静御前に「都へ帰りなさい」という。それを聞いた静御前は「あなたの子供を身ごもっている」ということを打ちあけ、「別れるくらいならいっそのこと殺してください」言うも聞き入れられず、義経は自分が使っていた鏡を渡して「これを自分だと思って使ってくれ」という。吉水院に5日を過ごし・・・静御前の舞を見ながら義経は涙した・・・、静御前は「確かに鏡は、見る人の顔をうつすけれど、恋しい人の顔はうつしてくれない」と言ったとか。

静御前は泣く泣く『吉水神社』を出て・・・下山し始めたけれども、その時都では「義経は吉野にいるのではないか」という噂やいろんな噂が飛び交って、どの情報が本当なのかわからなくなっていた。そんな中、「吉野にいる」という噂を信じて、吉野山を探した一行が下山中の静御前を捕らえてしまう。
捕らえられた静御前は、勝手神社で舞をさせられて・・・・・確かに日本一の白拍子だと確認された。・・・・吉野の勝手神社には今もその舞塚が悲しく残ってる。

捕らえられた静御前は、義経の居場所なども全て一向に口を割らなかった。そこで、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られることに。この鎌倉へ送られる理由が「(源頼朝の妻であった)北条政子が日本一と言われた静御前の舞を見たい」というもの。本来ならば、重要参考人として送ればいいものを頼朝は「白拍子」としての立場の静御前を要求したのである。要するに「白拍子(高級娼婦)であるお前は公式の場に出られる身分ではない」が本音。そんな屈辱的な理由で静御前は鎌倉へやってきた。
そして、源氏の氏神である鶴岡八幡宮の奉納舞をするように命じられる。・・・という事は恋人の義経とは反対派である源頼朝派に対する舞(鎌倉万歳)という舞をしなければならないということ。
奉納舞の当日、「日本一の静御前が舞う」ということで大勢の観客が詰め掛けた。観客に見られながら、静御前は「静と申す白拍子にて候」と自らを「白拍子」と名乗り、
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき 
しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
一応の意味・吉野山で雪を踏み分けて入っていかれたあの義経様の足跡が愛しくてたまらない。私の名前を「静、静」と繰り返し呼んでくださった義経様に今一度会いたい。
この歌を聞いた頼朝は大激怒。「鎌倉万歳」の歌を歌えと言ったのに、「義経への恋しい思い」を歌うとは何事か!と普段冷静な頼朝がこの時ばかりは傍目にも分かるくらい顔色を変えて怒ったそう。それをなだめたのが、隣にいた政子。
「彼女の気持ちはわかります。私もあなたと同じような思いをしました。」と静に同情する気持ちを口にした。そうすると、政子に弱かった頼朝は何も言えなくなったらしい。仕方なく、機嫌を直すしかなかったのである。
と同時期に、静御前は身篭っており、ちょうど5ヶ月だったそう。それを知った頼朝は「生ませても良いが、男子なら殺せ」という命令を下す。生まれたのは男子で、泣き叫ぶ静の手から生まれたばかりの男児はもぎとられ、静は泣き伏し、叫ぶも願いは届かず、その子は由比ガ浜の海へ沈められてしまった。政子は子供の助命願いをしたというが、頼朝は却下したらしい。
その後、静と母の磯禅師は京都へ帰された。彼女を憐れんだ政子が多くの宝を持たせたという。静のその後は不明。しかし、悲恋をした女性として多くの伝説が残っている。
静御前終焉の地を行く
 
埼玉県北葛飾郡栗橋町
 
静の墓があるという埼玉の栗橋に向かった。
 
新宿からほぼ一時間15分駅余り。3時過ぎにその駅栗橋に着いた。
 
東京は、雲が割れて青空が顔をのぞかせていたが、栗橋に着くと、空は今にも泣き出しそうな様子だった。駅前の看板で、すぐに静の墓の場所を探した。するとかなり見にくいその看板の端に、静の墓二分とある。しかしその方向も目印もなく、不親切極まりない。
この距離ではタクシーに乗る意味もなく、歩道を渡って本屋で地図を見ることにした。駅を北に70mばかり歩くと、その場所は、すぐに現れた。静御前の墓。そこは何故か藤棚があり、淡い紫の花が満開であった。そこは以前光了寺という所だったようだ。中央に静女(しずじょ)の墓があり、その左には、義経招魂碑があり、そばには小さな生まれてすぐに鎌倉の海に流された静と義経の子供の慰霊塔が建てられている。墓の右後ろには明治にできた碑が建っており、その横には、
「舞う蝶の果てや夢見る塚のかげ 座仏」なる句碑がある。
またその右には最近植えられたと見られる「静桜」の若木が小さな柵を設けられてひっそり咲いている。薄いピンクの可憐さを湛えて、大樹に成長する日が待ち遠しいかぎりだ。
①栗橋教育委員会による看板によれば、この墓は、享和三年(1803年)5月に関東郡代中川飛騨守忠秀(なかがわひだのかみただひで)という人物が作ったものであるらしい。以前の墓は、利根川の氾濫で流されてしまったようだ。
②墓のあったとされる光了寺の過去帳には静の戒名として「巖松院殿義静妙源大姉」が残されている模様。また静が、この光了寺を訪ねた理由は、義経の叔父に当たる人物が住職をしていたよしみで、吉野山で静と決別するおり、義経は静に、
「吾がこののちの所在は武州葛飾の光了寺の住僧なる叔父に聞けば知らる可し。御身は一度京に帰り、明年の春海道(東海道)を通りてかしこに来たりてたずねよ」と語ったというのだ。
尚現在、光了寺は、茨城県古河市中田にあるが、昔は伊坂(現栗橋町)にあったようだ。この寺には、静の遺品の舞衣(まいぎぬ)の一部や、鏡、守本尊などが残されている。
 
 義経が殺される年、文治5年1月のことです。泰衡が義経を討ち死にさせた直後の5月、静はようやく太田荘須賀(宮代町)を経て、下河辺荘高野(杉戸町)にたどり着きました。
ここから、静は古河の関所、元栗橋(茨城県五霞村)を目指すのですが、関所での取り調べが厳重であることから、八甫(鷲宮町)を経て、高柳(栗橋町)に出て、高柳寺に一泊しました。翌日、奥州路を下逸見(茨城県総和町)までやってきた静は、旅人から義経が先月平泉で討ち死にしたことを知らされ、精根尽き、伊坂(栗橋町)まで、引き返してきましたが、既に静は生きる望みさえ失っていました。
静は伊坂(栗橋町)の地で剃髪し尼となりましたが、その3ヶ月後の8月、義経の名を最後にこの世をさりました。」と云々。現在栗橋町にある「静御前遺跡保存会」では、毎年九月十五日、静御前の命日にちなみ墓前祭を行っている模様。
 
                        (文責 佐藤弘弥 ) 
 
 
源義経と静御前との悲恋は、人々の心を揺さぶる物語として、いつの時代にも語り継がれている。それは、義経が時代を一気に駆け抜け、享年31歳の若さで、兄・頼朝の手により討ち取られた悲運の武将であること、そして歴史上から忽然と消えた静御前の生涯に由来する。

  そのため、この二人に関して日本各地に多くの伝説を残している。山口市阿東徳佐の地でも、古くから静御前が母・磯禅師と共に都を落ち、大内氏が治める阿東徳佐の地で、ひっそりと終焉を迎えたとの伝説が言い伝えられ、その墓所と思われる所に宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔が残されている。
 
源義経の愛妾「静御前の墓」
 
栃尾 
所在地
長岡市栃堀 (高徳寺坂)
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/shiseki/img/sizuka.jpg 静と従者たちは越後に出て、そこから山中を会津へ抜け、さらに平泉に向けて北上するという長い道のりを選びました。道中には、世情名高い八十里越えの難所があります。ところが長旅の途中、栃堀までやって来た静は病を患い栃堀に逗留することになりました。そして、建久元(1190)年4月28日、従者たちの看護のかいもなく静は若い身空で世を去ります。従者たちは栃堀の里人の手を借りて、小高い丘の中腹に静の遺骸を埋葬し、そのふもとに庵を造って静の霊を守り続けることになりました。この庵が、後の高徳寺であるとされています。
 明治の末、静の話を聞き知った小向村のセイという娘が静を哀れみ、自らが機を織って稼いだ金を細々とたくわえ続け、静の供養のための石塔を建立しました。これが、今に残る栃堀の高徳寺の丘に建つ「静御前の墓」に隣接する石塔です。
 
福岡県福津市
福津市(旧:津屋崎町)生家(ゆくえ)地区に静御前の墓と言われている墓があります。カンバンも案内板もなく田んぼの隅にひっそりと建っています。
静御前と言えば源義経の愛妾(あいしょう:気に入りの妾【めかけ】)だった人です。
なんでも、1185年頃に静御前は源義経を探すためにここに住んでいたそうです。義経に会えない悲しみから
わが君の 行くえも知らず、しずか川
 流れの末に身をやとどめむ

という歌を詠んだと言われています。後にこの地を生家(ゆくえ)と呼び、静御前の霊を弔う墓が建てられたそうです。
 
 
 

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