白山桜(しろやまざくら)の『献木』
 
 
吉野の「シロヤマ桜」を山守として
 
大切に子供や孫の代まで
 
美しいまま伝えて行きたい。
 
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御献木に感謝します
 
東京都大田区の宮田様
新潟県長岡市の石田様
 
 
 
 
毎年少しずつ、桜の木を植えていかないと、古くなった桜が次々に倒れて行く
 
温暖化のせいか?中国からの有毒な黄砂の影響なのか?
 
「吉野山の白山桜」も弱ってきた、
 
だから次の世代のために新しい桜を植えていかねばならない。
 
 
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吉水神社に宮司として、着任して一番心がけていることは
 
神様に恥ずかしくない宮司でありたい
 
この吉野の白山桜(しろやまざくら)を守り後世に遺したい
 
この吉水神社の屋根の葺き替え(平成25年)を成し遂げ後世に遺したい
 
平成13年に消失した勝手神社を再建したい
 
大変な事業ではあるが、苦労と思わず天が命じて下さったやりがいのあるお仕事だと感謝して、一つ一つ着実に成し遂げて行きたい。
 
 
 
 
3万本のシロヤマザクラ

『これはこれはとばかり花の吉野山』と貞室が詠んだように、吉野山の桜は、尾根から谷を埋め、爛漫と咲き誇るその見事さで広く知られています。
 吉野山が桜の名所となったのは、今から1300年前、役行者が金峯山寺を開くとき、感得した蔵王権現を桜の木に刻んだことから、ご神木として保護されてきました。
 現在200種約3万本、多くがシロヤマザクラ。若葉と同じくして開花するので、凛とした気品が感じられます。
 吉野山の地形が、吉野川畔の六田の渡しに始まって、大峰連峰に達するまで一途に上がって行くため、花の季節に珍しい特徴がありますが、今年は暖冬のようですから下千本の桜は4月の声を聞き始めるころ開花するように思われます。それから日を追って中千本・上千本へと山脈をはい上るように爛漫と咲き誇り、4月中旬、中千本から上千本への最盛期となり、桜をとりまく杉木立の中に豪華な絵巻がくりひろげられるでしょう。この景観こそ吉野山の精髄で、他の桜の名所では見られない雄大な風景が、花に遊ぶ人々の胸をうつ感動を呼び起こすのです。そして奥千本では、4月20日以降になってようやく満開の桜が見れるでしょう。そのころ下千本では、すっかり葉桜となって初夏の風さえ匂っています。


  吉野山は全国的に桜の名所として有名で、4月の上旬から中旬にかけて3万本ともいわれるシロヤマザクラが豪華絢爛に咲きみだれます。しかし、みなさんはなぜ吉野山にこれほど多くの桜が植えられたかご存知でしょうか。

 日本全国の多くの桜の名所では、近代になってから桜並木を整備したり、古くからある古木を大切に保護したり、いわゆる「花見」のために桜を植栽・管理しています。しかし、吉野の桜はそれらのものとは異なり、「花見」のためではなく、山岳宗教と密接に結びついた信仰の桜として現在まで大切に保護されてきました。
 その起源は今から約1300年前にさかのぼります。その当時は、山々には神が宿るとされ、吉野は神仙の住む理想郷として認識されていました。のちに修験道の開祖と呼ばれる役小角(役行者)は、山上ヶ岳に深く分け入り、一千日の難行苦行の果てに憤怒の形相もおそろしい蔵王権現を感得し、その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして桜の木に刻み、これを山上ヶ岳と吉野山に祀ったとされています。その後、役行者の神秘的な伝承と修験道が盛行するにつれて、本尊を刻んだ「桜」こそ「御神木」としてふさわしいとされ、またそれと同時に蔵王権現を本尊とする金峯山寺への参詣もさかんになり、御神木の献木という行為によって植え続けられました。
 また、吉野にはその桜に惹かれて、多くの文人墨客が訪れています。古くは西行法師が吉野に庵を結び、多くの歌を残しました。

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 その西行法師に憧れ、吉野に2度杖をひいたのが松尾芭蕉です。貞享元(1684)年の秋9月に西行法師を慕って、奥千本西行庵に向かい、

  と詠んで、「野晒紀行」にまとめました。さらに4年後、弟子の坪井杜国を伴い、花の吉野を目指しました。その旅をまとめた「笈の小文」には次のような句がおさめられています。
 また、国学者本居宣長は、なき父母がなかなか子宝に恵まれず、吉野の子守の神(吉野水分神社)に熱心にお参りをしたご加護で自分が生まれたと信じており、そのお礼参りのため、世に聞く吉野の桜見物をかねて春の吉野に訪れました。その様子は「菅笠日記」に納められています。
この頃から一般庶民の吉野への旅が盛んになり、春の吉野山は今と変わりない賑わいを呈するようになりました。

 少し時代はさかのぼりますが、吉野での花見といえば、豊太閤秀吉の花見を抜きには語れません。秀吉が、絶頂の勢力を誇った文禄3(1594)年、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れまし
た。しかし、この年の吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから3日間雨が降り続きました。苛立った秀吉は、同行していた聖護院の僧道澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と伝えると、道澄はあわてて、吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じました。その甲斐あってか、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、盛大に豪華絢爛な花見が催され、さすがの秀吉も吉野山の神仏の効験に感じ入ったと伝えられています。

 その後、明治の廃仏毀釈や第二次世界大戦等により一時吉野山の桜も衰退を辿りますが、吉野山保勝会をはじめ関係者の懸命の努力により、今では往時の勢いを取り戻しつつあります。 今までに紹介した他にも、吉野には源義経と静、南北朝時代の後醍醐天皇など、様々な場面で歴史の舞台に登場します。吉野にはこれらにまつわる神社仏閣・史跡が点在し、その当時の面影を残す悠久の里です。日本一ともいわれる美しい桜を愛でるのはもちろんのこと、今も脈々と伝えられる歴史や文化を通して遠い昔に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
吉野町HPより
 
 
(財)吉野山保勝会は、
 
全国一の桜の名勝と史跡等の文化財の保全を目的とする事業に取り組み懸命に努力いたしております。
 近年自然現象の変化等により、桜の病虫害、老化が進み樹勢の衰弱が目立ってまいりました。関係機関のご厚意により桜対策委員会を設置して桜活性の研究と実態調査などを行ない、この結果をもとに関係当局の指導を得、より一層の管理に努めております。下草刈りの徹底や枯損木の伐採、新たな桜山開発などを重点的に行なっておりますが、吉野山住民の協力はむろんのことながら、奈良県、吉野町、諸団体よりの援助を得、又信託預金から生み出される利息を吉野山保勝会に寄付されるという、かつてなかった方法で桜の保護対策に寄与いただいております。
 この様に、吉野山に熱い思いを寄せられた多くの人びとの物心両面にわたるご支援をいただきながら、財)吉野山保勝会はより充実した活動を続けてまいります。
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