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新田義貞の銅像が盗まれる
高さ80センチ、
挙兵の神社から
(群馬・太田/生品神社)
何の目的だろうか?
生品神社にすぐに返って来るように祈る
誰も見ていないことは無い
天が知っている
地が知っている
盗んだ己の心が知っている
出来心でしたのであれば
すぐに元の場所に返して欲しい
19日午前10時45分ごろ、群馬県太田市新田市野井町の生品神社にあった新田義貞の銅像がなくなっているのを近くの住民が見つけた。
神社から連絡を受けた市教育委員会が110番し、県警太田署員が駆け付けると、銅像が台座からもぎ取られており、同署は窃盗事件として調べている。
同署などによると、銅像は高さ約80センチ。約1.8メートルの高さの台座に、足元がボルトで固定されていた。17日午前10時ごろ、確認されたのが最後という。
市文化財課によると、生品神社の境内は国の史跡に指定されているが、銅像は重要文化財などの指定は受けていない。
新田義貞は1333年に鎌倉幕府倒幕のため、この神社から挙兵したとされる。銅像は1941年に作られ、挙兵650周年を記念して1983年に神社に設置された。
≪新田義貞の挙兵≫
新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘3年(1333)5月8日、
鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内です。
昭和9年に建武の中興600年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡に指定されましたが、平成12年に「新田荘遺跡 生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。
義貞が旗挙げを行った時はわずか150騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となって、15日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれています。
神社境内には、旗挙げ塚、床几塚があり、拝殿の前には義貞が旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されています。
現在では、義貞挙兵の故事にならい、毎年五月八日、氏子によって鏑矢祭が行われています。
平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と書かれていることから、
神社は平安時代には存在していたと指定されます。
≪生品神社(いくしなじんじゃ)≫
群馬県太田市新田市野井町(旧新田郡新田町市野井)にある神社。境内は国の史跡に指定されている。主祭神は大穴牟遅神(大国主)。旧社格は県社。国指定新田荘遺跡のひとつ。
平安時代の上野国神名帳に「新田郡従三位生階明神」として記載される古社である。主祭神は大国主であるが、平将門を祀っているという伝説もある。
元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞が後醍醐天皇より鎌倉幕府倒幕の綸旨を受けた際に、産土神である生品神社境内で旗揚げをし、鎌倉に攻め込んだと伝えられる。このとき、旗揚げに参集した武将は150騎だったと伝えられている。境内には社殿の他、新田義貞公像、義貞公旗揚げ塚、神木、記念碑等がある。毎年5月8日には例祭として鏑矢祭が行なわれる。
1934年(昭和9年)3月13日、「生品神社境内(新田義貞挙兵伝説地)」として国の史跡に指定された。
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