『天 子』


天子さま

おわしますれば

政治屋の

悪しき世なれど

国は 滅びず

(木村徳太郎)

○ 「神の依さしの すめらぎの国」より



今の混迷の時代に、ふと「木村徳太郎先生の言の葉」を思い出すと、心が癒される。


後醍醐天皇さまは、政府の無能・無策・優柔不断をお嘆きになり、このような
政府に日本は、任せて置けないとの焦燥感から天下平穏・民心安定を願われた。

「近隣諸国(元寇)からの「領土侵略」、尖閣列島(中国)竹島(韓国)の日本固有の領土が犯されたりしている現状をお嘆きになりました。

日本国民が理不尽にも、北朝鮮という無法国家に、「拉致」され救いを求めている現状を嘆き悲しまれました。

 時の政府の「弱腰外交」により、国民の食の安全が「中国の毒餃子や産地偽装」脅かされているのにもかかわらず「相手の嫌がる事はしない」と愚かにも逃げている、北条や足利のような政府を見られて、あまりにも腰の引けた政府を変えようとされて・・吉野にお隠れになり吉水にて挙兵された。


「天子」様はひどく国民のことを危惧されて・・・その世情をかんがみて・・やむにやまれず「建武の中興」に立ち上がられました。

世 おさまり

民 安かれと

祈るこそ

わが身に 尽きぬ

願いなりけれ

(後醍醐天皇御製)

石油の高騰に伴い、あらゆる消費物価が上がり、医療機関も医師不足で子供も安心して産めない日本・・政治は政争に明け暮れ国民は置き去りにされている

ああ、嘆かわしきわが祖国よ

≪木村徳太郎先生のプロフィール≫

『児童文学に夢を乗せ生きていた一人の人間がいた。』



木村徳太郎自身の書いた略歴がある(童謡芸術年刊集。昭和十三年版より)

私は 1915年9月4日に生まれた。
私は 1926年小学を卒へた。
私は 1929年中学中退した。
私は 1930年以来家業を励んで来た。
私は 1932年詩人S.F.Wと仲よしになった。
私は 1935年初めて、詩を作った。そして仲よし達から喜んでもらった。
私は 1936年童謡芸術協会の仲間に入れてもらった。
私は 初めて、童謡を試作しだした。
私は 毎日幸福に生活した。童謡芸術の仲間は皆んな嬉しい、いゝ人達ばかりなので。
私は 明るい性質になった。家業も楽しい、いゝ友達も出来た。生活もだ。
私は 生まれた時も、亡くなる時も同じところだろう。

「亡くなるときも同じだろう」。そんな父の願いは、叶わなかった。
「生まれた時も亡くなる時も同じ」人間としての根源的な、その願いを叶えてあげたい。
そして、一人の人間が確かに生きていたことを・・・。


木村徳太郎(1915~1996)
北原白秋に師事し詩作を志す。
1945年南朝鮮より復員。
以後、小川未明に師事し児童文学を志す(児童文学者協会。多数の作品残す)。
1963年 毎日新聞(全国版)に伝書鳩ものがたりを執筆連載。
やがて、児童文学者協会脱退。
1965年ごろから詩作、児童文学から離れる。
その後、評論、歴史、政治物に転向。

(おもな作品)
童話「三吉と狼」昭和出版。童謡「おかあさん」アルプス社。
評論集「児童文化・文学・保護」梅田出版。人形劇集「狐の裁判」橿原神宮出版部。
少年小説「よみがえる少年たち」近畿図書。評論集「児童文学の周囲」日本社。評論集「ひとのこころの」婦人と平和の会。シリーズ物作品「歴史の光」「おはなし世界歴史」実業の日本社。「日本名作童話」金の星社。「青少年に与える心のよろどころの天皇様」洛風書房。「明治天皇さま」洛風書房。など。



木村徳太郎自身の書いた略歴がある(童謡芸術年刊集。昭和十三年版より)

私は 1915年9月4日に生まれた。
私は 1926年小学を卒へた。
私は 1929年中学中退した。
私は 1930年以来家業を励んで来た。
私は 1932年詩人S.F.Wと仲よしになった。
私は 1935年初めて、詩を作った。そして仲よし達から喜んでもらった。
私は 1936年童謡芸術協会の仲間に入れてもらった。
私は 初めて、童謡を試作しだした。
私は 毎日幸福に生活した。童謡芸術の仲間は皆んな嬉しい、いゝ人達ばかりなので。
私は 明るい性質になった。家業も楽しい、いゝ友達も出来た。生活もだ。
私は 生まれた時も、亡くなる時も同じところだろう。

「亡くなるときも同じだろう」。そんな父の願いは、叶わなかった。
「生まれた時も亡くなる時も同じ」人間としての根源的な、その願いを叶えてあげたい。
そして、一人の人間が確かに生きていたことを・・・。


木村徳太郎(1915~1996)
北原白秋に師事し詩作を志す。
1945年南朝鮮より復員。
以後、小川未明に師事し児童文学を志す(児童文学者協会。多数の作品残す)。
1963年 毎日新聞(全国版)に伝書鳩ものがたりを執筆連載。
やがて、児童文学者協会脱退。
1965年ごろから詩作、児童文学から離れる。
その後、評論、歴史、政治物に転向。

(おもな作品)
童話「三吉と狼」昭和出版。童謡「おかあさん」アルプス社。
評論集「児童文化・文学・保護」梅田出版。人形劇集「狐の裁判」橿原神宮出版部。
少年小説「よみがえる少年たち」近畿図書。評論集「児童文学の周囲」日本社。評論集「ひとのこころの」婦人と平和の会。シリーズ物作品「歴史の光」「おはなし世界歴史」実業の日本社。「日本名作童話」金の星社。「青少年に与える心のよろどころの天皇様」洛風書房。「明治天皇さま」洛風書房。など。




木村徳太郎自身の書いた略歴がある(童謡芸術年刊集。昭和十三年版より)

私は 1915年9月4日に生まれた。
私は 1926年小学を卒へた。
私は 1929年中学中退した。
私は 1930年以来家業を励んで来た。
私は 1932年詩人S.F.Wと仲よしになった。
私は 1935年初めて、詩を作った。そして仲よし達から喜んでもらった。
私は 1936年童謡芸術協会の仲間に入れてもらった。
私は 初めて、童謡を試作しだした。
私は 毎日幸福に生活した。童謡芸術の仲間は皆んな嬉しい、いゝ人達ばかりなので。
私は 明るい性質になった。家業も楽しい、いゝ友達も出来た。生活もだ。
私は 生まれた時も、亡くなる時も同じところだろう。

「亡くなるときも同じだろう」。そんな父の願いは、叶わなかった。
「生まれた時も亡くなる時も同じ」人間としての根源的な、その願いを叶えてあげたい。
そして、一人の人間が確かに生きていたことを・・・。


木村徳太郎(1915~1996)
北原白秋に師事し詩作を志す。
1945年南朝鮮より復員。
以後、小川未明に師事し児童文学を志す(児童文学者協会。多数の作品残す)。
1963年 毎日新聞(全国版)に伝書鳩ものがたりを執筆連載。
やがて、児童文学者協会脱退。
1965年ごろから詩作、児童文学から離れる。
その後、評論、歴史、政治物に転向。

(おもな作品)
童話「三吉と狼」昭和出版。童謡「おかあさん」アルプス社。
評論集「児童文化・文学・保護」梅田出版。人形劇集「狐の裁判」橿原神宮出版部。
少年小説「よみがえる少年たち」近畿図書。評論集「児童文学の周囲」日本社。評論集「ひとのこころの」婦人と平和の会。シリーズ物作品「歴史の光」「おはなし世界歴史」実業の日本社。「日本名作童話」金の星社。「青少年に与える心のよろどころの天皇様」洛風書房。「明治天皇さま」洛風書房。など。


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