自分とは究極一体何か
自然界は時間空間において始まりも終わりも無き永遠無限。
森羅万象一切はこの永遠無限の時空にある。
この時空内一切は一つの例外もなく切れ目なくつながる一体物。障子のさんにたまる埃一粒にさえたどり着けない過去があり、終わりなき未来がある。それは小なりといえどこの地球の一部であり、ひいてはこの時空の永遠無限の一部である。
自然界とは時空を含めた永遠無限の切れ目なき連続の一体物。
人とはこの永遠無限の自然界に片時現れた幻影。
肉体は所詮、物質からなる。物質であるかぎり、自然界の一部。
物質は自然とともにある。
姿形変われども、永遠無限の自然片時たりとも離れぬ一体の永遠。
しかしながら、この「自分」には始まりあり、必ず終わりがある。
死すれば二度と再びこの世に現れることは無い、
「自分」は物質ではない。物質はどんな希少物質でも永遠無限の自然界に探せばいくらでもあるもの。
物質はこの永遠無限の自然界の不可分の一体物。
自然界という一体の世界からすれば人の世界の物の区別など元々なく全てはつながる不可分の永遠無限の一体物。
従い、自然界に人の世界の如き一体物を切り刻んだ言葉はは永遠に存在しえない。
しかしながら、この全てがつながる一体の自然界にあって、この自分とは唯一無二にして、自然とのつながりがどこにも見えない。
自分は間違いなくこの身体にありながらこの体の一部ではないのだ。
自分は脳にありそうだ。脳のどの部位が自分なのか。各部位の機能はわかってもこの唯一無二の自分という主体がどこにあるのか。
物質でない「自分」とはDNAに無い。DNA同じ一卵性双生児にして「自分」は赤の他人同様一点の共通点もない。
DNAでデザインできるのは肉体、能力、性格までだ。
自分とはつまり過去未来と全くつながらない一代の幻。
生物にこの自分はない。生物は自然より授かりし本能で自然環境の変化に条件
反射で対応して生きるだけだ。「我思う故に我有り。」の我が無い。それはあたかもプログラムで動くロボットと変わりはない。
生き物に自然より与えられし本能から独立した主体、自分はない。
人でもまだ自分の無い赤ん坊本能で生きるだけだ。眠ければ寝る。腹が減れば所時をわきまえず乳を求める。催すままに糞尿を垂れ流す。
本能だけで生きる野山を走り回る動物と何ら変わらない。
生き物とはこの自然が作りし本能というプログラムで動くロボットである。
主体無き生き物は今この時を本能に基づきやり過ごすだけの連続でその一生を終える。
昨日を振り返り、より良き明日を目指す世界はない。
今この時があるだけで、昨日も明日も良いも悪いも人の常識文化は当然のことながら無い。
腹一杯のライオンはうまそうな鹿を寝ぼけ眼で見ても大あくびで昼寝を決め込む。
明日、腹が減ることなど考える事はなどない。彼らにはロボの如く今、本能のプログラムで今目の前の事象に対し、条件反射で反応するだけだ。
ロボにも生き物にもない。この永遠無限の自然界の何処にもその起源無き「自分」とは一体何なのか
ここで議論していきたい。ご意見をお待ちしております。