世の中は日々起こる様々な事象を面白おかしく取り上げ、その場限りの大騒ぎ。

時を経ずして次の事象に飛びつき、昨日あれほど大騒ぎした事はどこへやら。

自分にとり世間で騒がれる事は全てが大事で全てが無意味。

 

はるか遠くのウクライナで戦争どうこうが・・・

本当は自分にどれほどのものなのかまともに考えたこともない。この間までその国名すら知らなかったのに

世界の情報が瞬時に伝わる現代にあって、益々、人は時の話題、流行りに流される。

明日には次の話題で大盛り上がり。

日々伝わるニュース、テレビラジオでコメンテーターがまなじりを吊り上げながら論争、決して他人ごとではないというが果たして本当に自分にとりどれほどのものか。

人はただ世の中での流行に流され、言葉の響きに一時浸るだけのもの。

この間まであれほど大騒ぎしたミヤンマーはどこへ行った。ウクライナも明日になれば鮮度は落ち、どこも話題にしなくなる。当地では戦禍は残り、生活はさらにきつくなっているのに。

 

齢、還暦をとうに過ぎ、これまで様々体験してきたが、結局のところ見聞きしたのは、この自分の両の目、耳だ。

最新のマシーンどう気張っても最後の最後自分が見聞きできるのは少し頼りなくなった自分の目、耳だ。自分の目、耳なしにはこれほどビジュアル機器が進化した今も昔となんら変わらず、見聞きは出来ない。

 

マシーン実本物そっくりの高精細の画像を再現するといってもその実、画素の集積にしか過ぎない。

本物そっくりどうこういうのはこの自分だ。

山と積まれた札束に価値があるわけではない。

金銀財宝に価値があるわけではない。

旨いものが旨いのではない。

美しいものが美しいのではない。

これらに心を動かす自分あっての価値であり、旨味であり、美しさである。

自分無ければ、これらは路傍の石となんら変わらぬ単なる物にすぎない。

全ての意味はこの自分あっての事だ。死して自分無ければ、絶対の時間と空間すら消え去り、意味なきものとなる。死者に時間の経過の意味は無い。生きている者にとってのみの時間の存在である。

 

世の中の風潮に流されず、既成概念に囚われず人の真実、人を産んだこの時空一切、自然をこのブログで語りあいたい。