ドキュメンタリー映画二題 | 残日録

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 7月16日の代々木公園での「さよなら原発10万人集会」に友人たちと参加された室井佑月さんが、ラジオ番組(文化放送「大竹まことゴールデンラジオ 」12/07/20)でその様子を話されていました。

 不正確かも知れませんが、掻い摘んで書き留めておきます。

◇お年寄りが立派だった。日陰を女性に譲っているおじいさんを見た。

◇若者も立派だった。おばあさんが道端でぐったりしていると若者が声をかけていた。若者も立派だ。

◇泣きたくなった。南相馬から来ていた年配の夫婦は「こんなに大勢の人が集まってくれて心が一つになってうれしい」と話していた。それを聞いて泣きたくなった。

◇ある新聞に
 「過激派と呼ばれるひとたちがくるから警察がピリピリしている」と書かれていたがそんな人たちはいなかった。みんな礼儀正しい人だった。

◇話せることは健全なこと。生後5ヶ月の赤ちゃんとともに参加していたお母さんは「周りの人に放射能のこと原発のことを話すと神経質だと言われて話せなかった。デモに参加すれば当たり前のこととして話ができた」と言っていた。
 この方が健全ではないだろうか。

◇警察はずるい。警察はデモ隊を信号で切るのではなく、少人数に細切れにしていた。デモの規模を小さく小さく見せようとしている。

 書き起こし者の主観も入っていると思います。是非ポッドキャスト の音声をお聞きください。

 映画を観るのは、先に観た映画のことが整理できてからと思っているのですが、時々は前に観た映画のことを整理もしないままに次の映画を観ることがあります。

 今回はイタリアの若い二人の監督が撮った「誰も知らない基地のこと 」に続いて、日本人女性ドキュメンタリー作家の「いわさきちひろ~27歳の旅立ち~ 」の二本立て?です。

◆誰も知らない基地のこと
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 アメリカ軍の基地はおよそ40の国に700以上もあるそうです。
 そのうち日本には27都道県に135ものアメリカ軍基地があります。

 日本の民主党政権の誕生と同じように何かが「Change」するのではないかと期待されたオバマ大統領の誕生でしたが、オバマ政権の初めての軍事予算は680億ドル、あのブッシュより30億ドルも増えたのです。

 アメリカ軍の基地がホスト国(駐留する国のことをホスト国と言うそうです)の安全のためという「安全神話」に騙されてはいけません。

 監督のひとりファツィさんはインタビュー で下記のように話されています。

 基地設立の理由はホスト国を守るためと言われますが、これは都合のいい言 い訳でしょう。例えば、冷戦中、ソ連の脅威を理由に欧州中に基地がつくられました。でも、ソ連が崩壊しても基地は増え続けています。それは抑止力云々で基 地があるというよりも、軍によってその地域をコントロールしようという目的のためです。米国は“民主主義のために行動する”と主張しますが、結局、彼らの 行動はプロパガンダであり、国家の利益になるように行動なり、政策なりがあるのです。もちろん、ホスト国の利益と重なることもあるし、経済的恩恵を受けた 地域もあるでしょう。ただそれで抑止力を感じられたかというと、違いますね。もう1点、冷戦時に米軍基地が増えたことで、逆に攻撃のターゲットになること もあります。例えば、当時イタリアはソ連の核弾頭が向けられていました。抑止力の効果の恩恵よりも、常に戦争と隣り合わせの危機感を持って生活することと なるのです。

 アメリカの在外基地の存在は、アメリカの世界戦略であるとともに、巨大なビジネスでもあるのです。在外基地の存在をほとんどのアメリカ人は知らないそうです。この映画がアメリカで公開されることを望みます。

 基地拡大計画に市民が立ち上がったビチェンツァ(イタリア)、島民を追い出し作られたディエゴ・ガルシア(インド洋)、そして普天間、伊波洋一・元宜野湾市長も出演されています。

◆いわさきちひろ~27歳の旅立ち~
 この映画は梅田のテアトル梅田で、朝一の回は観られなかったので二回目の上映を見ることにしましたが、幸運なことに上映前に監督の海南友子(かな・ともこ)さんの話を伺うことができました。

 山田洋次夫妻との出会い、いわさきちひろのドキュメントをとってみないかと誘われた話など上映前なので作品の中には触れられませんでしたが、長野での取材の折にちひろを「真綿で包まれた鉄のようだ」と評されていたという話が印象的でした。

 映画は、黒柳徹子さんなど多くの知人とともに夫である元衆議院議員の松本善明さん、息子の松本猛さんのインタビューで構成されています。

 ちひろは1945(昭和20)年5月の東京への空襲に遭い、封建的な家族関係の中で、進学も絵の道も認められず、挙句に親の決めた結婚を強いられ渡満、夫の自殺と厳しい人生を生きてきました。
 戦争が終わって戦争協力者として職を追われた両親は長野県で開拓農民として暮らしていました。ある朝、ちひろは絵の道で生きようと東京に向かうのでした。27歳の旅立ちです。

 東京に出たちひろは、進歩的な画家の仲間と出会いますが、ちひろの描く絵は退廃的だと非難されるなどと不遇な時代は続きますが、ちひろの力を評価する編集者との出会いや、松本善明さんとの出会い、結婚、出産と。

 ドラマチックなちひろさんの人生、真綿の中に鉄の塊が包まれていたと思わされるのは、挿絵と蔑まれていた画家の著作権を主張することに現れていました。絵を描いて一定の収入を得られていたのに出版社に著作権を認めさせる闘いを始めたのです。

 ちひろさんの絵がスクリーンいっぱいに広がるいい映画でした。