昨年の国内でのコロナ感染発生以降、情報の扱い方について、

改めていろいろ感じたり、気づくことが多かったといえます。

 

私自身は、組織を運営したり、イベントを企画・実施する立場上、

昨年の3月以降はとくに、迅速かつ適切に状況を判断し、

多くの選択や対応をする必要がありました。

 

そのため、ある程度は集中的に情報収集をし、過去の例を参考に、

比較的早期に終息するパターンから最悪のパターンまで、

いくつかシナリオを考え、時間の経過と共に、早期終息のシナリオは手放し、

直近の情報を基に、今後の予測をしていきました。

 

まず基本的に理解したのは、一定程度の人が免疫を獲得する

(ワクチンを含め)までは、医療が破綻しない程度に感染状況が
ゆるやかに推移していくようにするのが国の方針であること。

 

第一波、第二波を通過した10月頃、

友人に今後コロナの感染状況がどうなっていくと思うかと問われた際、

基本的に2つの要素の影響について注視していると伝えました。

10月以降の入国制限の緩和と、秋・冬の動向。

 

それは、昨春の時点ですでに中国をはじめ、外国からの入国制限が

話題になっていた経緯があることと、

秋・冬は感染拡大しやすいという基本的な知識からです。

 

この2つの要素は、まさに今、話題になっていることですが、

パンデミックについての初歩的な理解があれば、予想できることでしょう。

今のところコロナは、これまでの感染症についての基本パターンを踏襲しています。

他に変異ウィルスによる感染力の高まりという要素もありますが。

 

情報収集に当たっては、やはりマスコミやSNS、そして書籍などが

助けになっています。


マスコミ批判がされますが、私自身、30年ぐらい前に、大手マスコミから

取材を受けた際、最初から結論ありきの姿勢に不信感を抱いたこともありますし、

コロナについての報道の中で、情報の扱い方に疑問を抱くこともあります。
 

ただし、偏っているのは、マスコミだけでなく、SNS、ひいては個人個人の
ものの見方でしょう(自戒を込めて)。
マスコミの報道の中には重要な情報もあり、さまざまな分析・判断をする上で、

助かっています。

制約がある中で、できるだけ客観的・多極的な情報提供をしようと

頑張っているマスコミ人もいることを実際に接した経験から、感じます。

 

マスコミに対してただアンチになってしまうと、重要な情報が得られず、

SNSなどの影響により、かえって偏った見方に陥っていると思われるケースが
多々あります。

たとえば、マスコミ批判が強い人の情報が不足していたり、正確でなく、

コロナについて語った情報をファクトチェックしてみると、

まったく違っていたりすることが何度もあります。

また、そうした人の今後についての予測が外れることもあります

(楽観的すぎたことにより)。

 

必要なのは、マスコミ・バッシングよりも、マスコミやSNS、
そして自分自身の思考など、あらゆる情報についてのクリティカル・シンキングと
ファクトチェックだと思います。

つまり、情報をオープンマインドで吟味すること。

そして大量の情報の渦の中で、私自身は、もっとも過酷な現場である医療関係者の声を

とても大切にしています。

 

他にも、自分にとって都合のよい(自分の考え方を補強する)情報を

取捨選択していないか、ということについても考えさせられます。
何らかの強い「動機」をもっていると、情報を都合よく選択したり、

解釈することになります。

 

たとえば、「どうしてもオリンピックを開催したい」、

「これまでの自分の得意な仕事のやり方を変えたくない」といったような欲求、

その奥にある、「〜ができなくなったら困る」といった恐れーーー

そうした(主に無意識の)動機が強いと、

自分にとって都合のよい情報を信じる可能性があります。


そしてすでに指摘されていることですが、

今回のコロナの状況では、「正常性バイアス」に気をつける必要があります。

 

古い防災の常識では、災害に直面した人々の多くは、
パニックに陥りやすいと考えられていました。

けれども後になって、実際にパニックが起きるのはまれであり、
むしろ災害に直面した人々がすぐに避難行動を取ろうとしない原因の一つとして、

「正常性バイアス」ということが言われるようになりました。

 

それは、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう

特性のことです。

 

危険が予想される状況でも、日常生活の延長上のできごととして

とらえてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「まだ大丈夫」などと
過小評価するなどして、逃げ遅れの原因にもなります。

 

それは他人事ではなく、自分の中でも起きることとして、認識できる傾向性です。