今日はツイッターで知り合った方と、
政治におけるスピリチュアルなスタンスとはどのようなものか、
やりとりしました。

興味深い展開になったので、私自身の意見をここにまとめたいと
思います。(ブログ用に加筆しました。)

元々の話としては、社会の中で既得権益を守ろうとする人たちと
改革派との間で対立がある場合に、スピリチュアルなスタンスとは
どのようなものかという問題提起をいただきました。

大きなテーマですが、ひとつの視点としてお話したいと思います。


政治に対するスピリチュアルなスタンスというのは、
具体的なイメージでいうと、
やはりガンジーのような態度ということになる
のではないでしょうか。

~に対して闘う、アンチ("against ~")ではなく、
愛や平和、幸福、人間への尊厳など、
大切なものを求める("for ~")態度。

ガンジーの非暴力不服従という思想は、平和的でありながら、
誰も考えつかなかったラディカルなものでした。

ガンジーは、「自分が正しい」というところに立つのではなく、
自ら自我の境界を乗り越える態度でした。
決して、「自分の考えが正しい」ということを
押し通した訳ではありません。

インドの独立を牽引しましたが、イギリス人を敵視することはなかったし、
「正義の戦争」とは大きな違いですね。

私にとって心に残る有名なエピソードのひとつは、
自分の価値観(宗教も含め)と違う相手を受容する姿勢です。

あるヒンドゥー教の男が、ガンジーに告白します。
自分の息子を殺したイスラム教徒の子供を殺してしまった、
自分は地獄に行くのだと。

それに対しガンジーは、地獄から逃れる方法がひとつあるといいます。
親をなくしたイスラム教徒の子供をひきとり、
イスラム教徒として育てなさいというのです。

極端にも思えますが、自我を超えるありかたをドラマチックに
示していると思います。

決して高みから諭すのではなく、
ガンジー自身が、その男の抱える内面の地獄をわかっているからこそ、
伝わるのです。

闘いは自分自身の内面から始まるのだということをガンジーはいっていました。
自分自身に取り組むことの必要性についても。

また、ガンジーが自らのいのちを賭け、断食をしたことで、
イスラム教徒とヒンズー教徒が歩み寄り、全国的な抗争が終わります。
ガンジーの生死のリアルさを示す内面の強さにより、
どちらの教徒も自我を超えられたということであるように思えます。

そんなの理想で無理、と考えられることを一定の期間ではありましたが、
やってのけたことは、むだではなかったと思います。

ガンジーは有名ですが、スピリチュアルと政治という視点から
十分理解されていないかもしれません。

ガンジーのアプローチは、歴史上、本当に画期的だったと思います。
意識の進化の可能性を政治という現場であそこまで体現した人は、
初めてだったかもしれません。

ガンジーの思想に感銘を受け、引き継いだキング牧師は
黒人解放運動に尽力しました。


ガンジーに関心をもたれた方は、you tubeに映像がありますし、
映画『ガンジー』も彼のスピリチュアルなスタンスがよく伝わってくるので、お勧めです。