昨日、お話したように、ティムの祖母(母方)が逝きました。

「おばあちゃん」と呼べる存在は、親とも違う、特別なものです。
昨日は悲報に接し、やはり、という気持ちと、どこかで信じたくない気持ちが
交錯していましたが、今日は少し落ち着いてきました。

アメリカのグランマについて、記憶に留まっているのは、笑っている声と笑顔です。
何度も手術をし、満身創痍になっても、いつも朗らかでユーモアに満ち、
老人ホームでも病院でも、人気者でした。

そして死の間際でも、娘であるティムのお母さんに、最後に笑顔を残していきました。
何という贈り物でしょう。

ここ数日は、祖母に付き添っているティムのお母さんが、家族のみんなに体験をシェア
することで、エネルギーをもらい、そして、そのいいエネルギーがおばあちゃんにも
伝わっていくという循環が起きていたように思います。

そして私が書くことで、このブログを読んで下さっている方々との共通の心の基盤に
触れていくことにやはり意味があるかもしれないと、暖かいメッセージを送って
下さった方々のおかげで思えています。

9/9のブログで、次のように書きました。

「生老病死というのが、最大のスピリチュアルな体験であること。
そういう場にしっかりと向き合い、相手に存在レベルで関わることこそが、
本当の意味での人間らしさであり、次の世代に引き継ぐ必要のある、
大切な知恵なのだと思います。」

この知恵について、もう少し具体的に書きたいと思いました。

お産や病い、死の現場では、人はなまのいのちそのものに触れ、
ふだんの心の構えを超え、本来もっている繊細な感性や知恵を発揮できます。

そうした場では、相手のために何かをするということ以上に、
共に「在る」ことが大切になってきます。

生きられるとか、死ぬとか、結果が大事なのではなく、ただ、
その場に共にいること。「愛を感じ、愛でつながっている瞬間」。

一方で、そうした素直な感覚に委ねることができず、恐れや執着に
とらわれてしまうこともあります。

数年前、進行性の筋萎縮症で末期の方のカウンセリングをしていたことがあります。
(その方はしばらくして、亡くなられましたが。)

カウンセリングといっても、主には、ただ共にいること、
そしてハグすること、恐れていることを聞いてあげること。

とてもシンプルなことですが、感謝されました。
周囲の親族も医師も看護士さんも、皆、一生懸命なのですが、「面倒を見ること」
(doing)に忙しく、なかなか落ち着いて一緒にただいる(being)ということが
できません。

「今、ここにあること」の大切さ。
生きられるとか、死ぬとか、結果ではなく、何があっても「大丈夫」という態度。
「最後まであきらめないことと、手放すこと」のバランス。

生老病死の現場では、人間が本来もっているこうした知恵が自然に発揮されることも
あるかもしれません。けれども、かつてはすべてが家の中で起きていて、世代から世代へと
体験を通じて、この知恵が伝えられていたのです。

現代の私たちは、こうしたとても人間的な知恵を学び直す必要があるのかもしれません。
そのためには、できる限り、「現場」に身を置く必要があると思います。
たとえば、実際に死を看取ることと、お葬式に出ることとは、まったく違う体験です。

人生でもっとも重要な教えは、生老病死の現場にあります。
何が真実であり、もっとも大切かということを教わるのです。


ティムの妹、リンダとおばあちゃん(今年8月、ティムが撮影)。

$心の羅針盤~ティム・マクリーンと高岡よし子によるブログ-グランマ&リンダ