静養の境地へ
世界を震撼させるコロナ禍の正体には如何なる危険な性質が潜むのか分からぬまま、人類は必死に終息を祈願しているが、一向に先が見越せず、暗い今のご時世。
そのなかで物ごとの成り行きを運に任せるべきか自発的に動き出すべきかは、慎重に考えざるを得ない。
そういった定めのない風潮に押流されている現代の中で唯一、私の心身の保養になっていることは、香り高い自然の中に身を置き、風流韻事にふけることだ。
島根県の聖地にて
そういうつもりで今年8月頃にも、恋人と島根県へ回遊し、とても満喫した時間を過ごした。
その中で、長い歴史を持つ「石見銀山」に立ち寄った帰りに思いがけず「幻のお香屋」に出会った。
石見銀山追跡の入口
ひんやりとした空気が満ちた銀山の採掘トンネルを通り抜けると神秘的な森に出る。そこから繋がる林道はなだらかな登り坂となり、ずっと奥まで続いている。
幽玄な雰囲気の余りに、まるで狐狸妖怪が現れるような印象まで受けた。なにぶん、こんな辺鄙な僻地で人の気配もないからなおさらであった。
石見銀山を出ると、この林道にでて豊富な緑色な景色が広がっ
案内板や道標も見当たらず、道の先にたった一つの看板だけが目立っていた。
その看板に書いている内容と後ろに広がる光景を見て、私は驚異の眼を見張って、あたかも天狗でも見たかのようであった。とにかく感動したまましばらくそこで立ち尽くしていた。
その看板に書いてあったのが、「香り袋」だった。どういうことだと、急いで先に進むと、そこにはなんとこのコロナ禍でも営業している香屋があった。
まるで幻覚を見ているような佇まいをしている香屋の看板
岐に立っているもう一つの看板
特に敷居が高いわけもなかったにもかかわらず、入ろうか入るまいか、しばらくはもじもじしていたが、滅多にないこの好機を逃すわけにはいかないと意を決してお店にお邪魔した。
入ると、そのお店の中は風韻のある、鄙びた雰囲気とかなり情趣のある所で、全く特別な様相を呈していた。
お店の外側
お店の前側と入口
小規模な香屋さんは折々目にしたことはあるが、まさにこんな人里離れた所でこういうお店に会う機縁ができるなんて…
品格のある雰囲気から言えば他のお香屋と勝るとも劣らない、大層立派なお店であった。
そこでは時間がより一層そろりと経っていることも私をより惹きつけた。
店内には匂い袋が一つ一つ丁寧に陳列されていた。
奥を覗くと製造販売をしているようであった。
なぜならそこに薬草をすり潰すために使う薬研が置いてあったからだ。
その後ろには男性一人がちんまりと座り、徐に黒文字の枝を刻んで私の方に差し出しながら声をかけてくださった。
お店に入ったときに目にした光景
私の目をすぐに吸い寄せた薬研
香り袋のこととその由来について説明していただくなかで、その男性がまるで遁世生活の中で香り袋創りに明け暮れているように感じた。
主原料となる「和香木」の黒文字の熟練した取り扱い方と、その背景に潜むお香文化史の語り方からすれば、「創香師」である本人が香りの道を一途に歩み続けて、またそれを使命としている職人である印象を強く受けた。
看板商品である香り袋は主原料の「黒文字」の香りに、構造的に類似しているラベンダーを加えて、それを美麗な香り袋に丁寧に詰め込んで創り上げられており、職人ならではの発想力から生まれる逸品だなあと思った。
冴え切った黒文字の香りとそれを引き立てるラベンダーの香気漂わせる話題の香り袋
そんな店主に、お香の勉強と香り創りに熱中していると自身の自己紹介をすると、現地の黒文字に纏わる興味深い逸話をしてくださった。
その言い伝えによると、銀山が隆盛だった江戸時代にそれらを領有した殿様が自分の部下にある不思議な命令をしたそうだ。
その命令とは、現地の森に生えている黒文字を集めてそれを焚き、そこから立ち昇る煙を銀山の鉱坑に吹き込ませるように、といった命令であったそうだ。薬草に関する昔ながらの知恵を、銀山の職場環境の改善に奇抜に活かした殿様の面白い話だった。
創香師いわく、黒文字の抗菌消炎作用を利用することで、坑内の空気を清浄に保ち、鉱員たちの壮健を図ったわけだ。
そう語った店主の香りとその文化史に関する造詣の深さに、私が舌を巻いた。
あんな仙人が住んでいそうな森小屋で伸びやかに香りの工芸に専念しながら、悠々自適の生活を送れる人はなんて幸せだろう…
波乱万丈な日々の中のすべてが無常であることを自覚せざるを得ない今のご時世であるからして、殊に「禍福は糾える縄のごとし」という言葉がとても心に響く。すべては繋がっているのである。
袋そのものの馨り、またその艶やかな刺繍に誰もが心を奪われるため、お土産にも最適だと思う。
その他にも採れたての黒文字そのものがお店で売っており、一層しぶい贈り物としてもおすすめする。
黒文字の一束が1500円という、若干高く感じるお値段であったが、私が入店したその日は吉日であったか、なんと創香師がおまけしてくださった。そのご好意を恩に着て、大事に思い出していきたい。
黒文字一束をおまけに差し上げてくださった香司との一枚
昨今の秋思を散じるためにも、創香師が語っていた銀山に吹き込まれた黒文字煙のように、希望ある未来を懐うことが今とても必要だと感じている。
ということで:
去れ、忌まわしき憂鬱よ。