“私の記憶に残る パトレイバーMovie2”

 

このブログを読んでくださった多くの方から、

様々な感想やご意見を頂きました。

ありがとうございます。

この年になってこんなことが起きるなんて思ってもみませんでしたが、

どの感想もご意見も、とても興味深く拝読させていただきました。

 

思わず大きな声で笑ってしまうくらい、ど真ん中で的を射ている考察や、

私とは全く異なる視点からの感想など、

“なるほど、その見方もあるなぁ”と、感嘆してしまうものばかり…。

自分一人で物事を考えるとき、

どうしても視野の角度が限定されてしまいます。

発想の転換をして新しい目で物事を見なければ!と、

あれやこれやと無い知恵を絞りだして、

やっとのことで一つか二つ、新しい視点を見つけ出すのですが、

こうして様々な反応を読ませていただくと、

あっという間に、視野の角度が広がっていきますね。

とても面白いと思うとともに、

こういった様々な考え方に触れられて、“得しちゃった!”

という感じです。(すみません、現金な奴で・・・🙇)

 

“私のパトレイバー”、そして

“私の南雲しのぶさん”は、

「二人の軽井沢」で終わっています。

この作品を愛してやまない方々が大勢いらっしゃることは、

私にとっては救いです。

 

Movie2で、

それまで私が第一話から作り続けてきた“南雲しのぶ”の人格を

有無を言わせずに変えてまでも、

なぜ押井守監督があの世界を描こうとしたのか…。

 

押井守監督はご自身の社会的哲学を描くために、

南雲しのぶという女性を、その一つの“駒”として、

ストーリーという盤に置いただけなのだと私は思っています。

南雲しのぶという“人間”は、

押井守監督によって、あやふやな形で描写されている。

人間ならば、それまでの人生の中に散りばめられている数多の経験や、

そこから得た感覚、感情、考え方等々によって

“人格”が形成されていくものですが、

Movie2では、南雲しのぶの人格は判然としていません。

南雲しのぶはそういう人だとしか、押井守監督はおっしゃいませんでした。

それ以上の人格に関する説明はありませんでした。

 

この映画では、

南雲しのぶは人間として居るのではなく、

ストーリー展開の一つの“材料”としてそこに据えられたのだと、

私は考えています。

押井守監督は、たぶん、“人間・南雲しのぶ”よりも、

ご自身が作ったストーリーと哲学を、人間以上の存在として位置付け、

描写したかったのではないのでしょうか。

つまり、ご自身を、そこに描きたかったのではないかと…。

 

Movie2は、ストーリーとしては上級の作品です。

この作品が様々な人たちに影響を与えたのも事実だと思います。

 

映画を製作することと、その中に登場する“人間”を表現するのとでは、

少なくともこの作品では関連性が乏しく、

荒川の口を借りて無数の語彙で紡がれる“言葉の哲学”が際立っています。

哲学の陰に隠れて、登場人物一人一人の人格や性格は、

輪郭がぼやけて見えるのです。

そして不思議なことに、

ぼやけているからこそ、

その登場人物は、観る人の中に入り込み、

その想像力を刺激して、

初めて人格を持つのです。

 

南雲しのぶというキャラクターを、押井守監督が好んでいたということは、

どこかで耳にしていました。

 

想像の世界の人物を所有したいという気持ちは、

小説家や映像作家、戯作家等の“作家”と言われる方々には、

わりと強い形で、その心の中にあるものだと言います。

それだけでなく、男性はやはり、

女性を「所有する」という感覚が強いのだそうです。

精神科医で医学博士の斎藤環氏の本に、

そのようなことが書かれていました。

一方女性の場合は、

相手を所有するのではなく、

より深く関わりたいと思う気持ちが勝るのだとか…。

 

南雲しのぶが後藤喜一に急接近するのは、

押井守監督としては、好むところではなかったようです。

そこには、

押井守監督が頻繁に語る「社会的哲学」とは無縁の、

一人の男としての本能的な欲求が影響していたように思えます。

個人的にどうしても阻止しなければならない

“男としての何か”があったのではないでしょうか。

 

虚構の世界にしか息づくことのできない人物・“南雲しのぶ”は、

押井守監督がお書きになったストーリーの中では、

創造主である押井守監督の“創造物”になります。

生き物です。

 

創造物は、それを作り上げた者が所有するもの。

それは“自分”が生んだものであり、それを所有する権限は創造主にある・・・。

 

押井守監督はそうお考えになっているのかもしれませんね。

創造物である南雲しのぶは、自分のものであるからこそ、

自分のそばにずっと置いておくべきものとして、存在していたのでしょう。

自分の憧れる者に執着する傾向を強く持つ、まだ幼い少年のように、

痛々しいまでの欲求を、押井守監督は持っていたのではないかと、

私には思えます。

現実に存在する人間ではないが故に、

虚構の中の人物であるが故に、

よりその思いが強くなる。

そして、現実に存在しないからこそ、自分の思いのままになる…。

 

早口でクールで、常に不動の考えを述べる押井守監督ですが、

未だ自ら表出させようとはしない、

壊れやすいガラス細工のような繊細な面が、

その内側で、

幾重もの塀に防御されている場所に、

隠されているような気がしてなりません。

 

いつか、そこから発せられる『限りなくシンプルな言葉』を、

私は聞きたいと思っています。

 

私の“南雲しのぶ”は「二人の軽井沢」で終わっていますが、

Movie2の後、南雲しのぶはどうするのだろう・・・・。

姿を消すだろうと考えていました。

その先のストーリーが想像できなかったからです。

ただ、何とも嫌な感じの終わり方でした。

物悲しい、というのではなく、

一つのプロジェクトを成功に導くために、情熱を抱きながら苦労したにも関わらず、

一つの些細な出来事で頓挫してしまい、

その責任を取らされるように、プロジェクトを自ら白紙に戻す、

というような苦さがありました。

 

 

時が経ちました。

パトレイバーが実写になっていることを、誰かから聞きました。

どのような形になっているのか見当がつかず、

けれど、

押井守監督が「パトレイバー」という作品にこだわりを持っているのだなぁと思いました。

どうして?

理解できませんでした。

 

突然オファーがありました。

「声だけで、実写の映画・パトレイバーに南雲しのぶさんとして出演してほしい…

南雲しのぶさんの姿は、別の方が演じていらっしゃいます」

連絡をくださった制作の方が、押井守監督の“達ての希望”だとおっしゃいました。

「南雲しのぶの人生がどうなったのか、見届けなければ…」

私はオファーを受けました。

 

今考えると、

南雲しのぶを演じていらっしゃった「渋谷亜希さん」を存じ上げずにいて、

とても失礼なことをしてしまったと反省しています。

女優さんでいらっしゃるのですよね。

セリフも含めて、南雲しのぶさんを演じたかったのだと思います。

私も渋谷亜希さんの演技を見てみたかった。

渋谷亜希さんのうなじ、後ろ姿、サクサクと動くその敏捷さにしっとり感が漂い、

南雲しのぶさんの姿、そのままのようです。

実写の「THE NEXT GENERATION パトレイバー首都決戦」のオープニングでは、

戦火によって崩れたビルの内部で、

手紙を受け取ったばかりの南雲しのぶ・“渋谷亜希さん”の立ち姿がとても美しく、

きらりと光る眼が、強烈な存在感を放っていたのを覚えています。

今、渋谷亜希さんは多方面で大活躍をなさっています。

私の申し訳ないという気持ちも、少し軽くなっています。

 

実写版「パトレイバー」のストーリーには、

やはり、押井守監督独特の「考え」が散りばめられていました。

収録は、東映のスタジオ。

主役の俳優・“筧利夫さん”が先にスタジオに入っていて、

ご自身のパートのアフレコをしていました。

修正の部分だったと思います。

筧利夫さんは、後藤喜一と南雲しのぶの後輩「後藤田」を演じています。

テレビや映画で拝見している筧利夫さんとはまるで異なるムードを持っていらっしゃったので、

とても新鮮でした。

真摯な男性・・・。

それが目の前に居た“筧利夫さん”に抱いた、私の印象です。

 

筧利夫さんのセリフ収録が終わり、10分ほどの休憩・・・。

押井守監督がスタジオに入ってきました。

久しぶりに見る押井守監督でした。

その休憩の10分間に私が尋ねたことは

「南雲しのぶさんも、あれからいろいろ経験して、

すこし柔らかくなったと考えていいのですか?」

それで良い、ということになりました。

 

“柔らかい”という言葉に、私はある意味を込めていたのですが、

たぶんそれは、誰も気づかなかったと思います。

“柔らかい”とは、南雲しのぶが持っていた強い自己責任感を、

彼女自らが意志的に捨てたその結果だと、

私は考えていました。

 

一人の人間が、まったく異なる別の人間の思考傾向を有し、

その語り口までも酷似してくるのには、

その二人の人間が長い間行動を共にし、時間を共有し、

極めて密接な関係になっているからこそのものである。

それが男女の場合、

二人の間には、

営みも含めた深い関りが築かれているはずである・・・・

 

実写版「パトレイバー」の南雲しのぶは、

後藤喜一と同じ思考傾向と、酷似した語り口で、

後輩の「後藤田」を説得します。

Movie2の後、後藤喜一は姿を消し、

南雲しのぶは、外国のどこかの戦地にいるという設定になっていました。

 

押井守監督は、後藤喜一が「後藤田」を説得するよりも、

二人の知人であり、「後藤田」の先輩でもある、女性・南雲しのぶに語らせた方が、

「後藤田」も聞かないわけにはいかないだろうと、

ムック「後藤喜一×ぴあ」のスペシャルインタビューで語っていました。

 

押井守監督のこの説明は、ストーリーをよりスムーズに、

しかも、整合性や統一性等々を高めるために選んだ“手法”についての説明だと思います。

ご自身の作品ですから…。

 

ただ私の仕事は、

手法を説明するのではなく、

「人間を表現する」というものです。

前述した「人格」についての考えでもお分かりいただけると思いますが、

今あるその姿から、

その人間の過去に遡り、

その人格や変容を形成していく作業をします。

私はこれを、内的作業と呼んでいます。

 

南雲しのぶは自分自身が納得しない限り、

後藤喜一の考えを受け入れない人でした。

常に自分の考えを持つ人でした。

感化されやすい人でもありません。

そして、これもまた、

納得しない限り、

後藤喜一の頼みに応えることはしませんでした。

 

その南雲しのぶが、後藤喜一と同じ思考傾向で、

しかも、

明確には説明せずに、はぐらかしたり、フェイントをかけたり、

恫喝するように見せかけてはスゴスゴと引いてみたりという、

後藤喜一独特の語り口で、

「後藤田」を説得している。

 

「人間」を表現する者からすれば、

おのずと、

後藤喜一と南雲しのぶはすでに、密接な関係にあり、

相手に自分を同化させてしまうくらいの深い関係になっていると、

想像してしまうのです。

根拠は、

思考傾向の同一化と、独特な語り口の酷似・・・。

 

ただただ手紙や電話で連絡を取り合っているだけでは

ここまで似ることはありません。

一線を越え、その越えた関係を続けていなければ、

南雲しのぶは後藤喜一に似ることは決してない。

二人の酷似の裏に隠された関係を、私はそう考えました。

 

因みに、ファーザーコンプレックスの南雲しのぶさんは、

厳父ゆえに、後藤喜一のような男は選ばないと

押井守監督はおっしゃいました。

厳父ゆえに、父親とは真逆の男性を選ぶようになるのも、

ファーザーコンプレックスの一つです。

 

さて…。

小説でも、映画でも、

時代の変化に翻弄されることなく「名作」として残っている作品には

共通した特徴があるような気がします。

 

ある時期から、その作品は、登場人物も含めて、

それを創り上げた作者(創造主)の意図に反し、

まるで反旗を翻すように、一人歩きを始めます。

歩き始めた作品と登場人物は、決してもとには戻らず、

手に入れた自由を謳歌するように、

創造主からどんどん遠ざかっていきます。

創造主にはもう、成す術がありません。

それが「名作」と称されるようになったとき、

作品とその登場人物は、いったいどこにいるのでしょう。

 

それを読んだ人々、

観た人々、

それを堪能した人々一人一人の“中”で生きている。

私はそう思います。

そこからまた、

創造主の意図せぬ展開が始まり、

作品は、どんどんと成長し、膨れ上がって行きます。

もしかしたら「名作」というものは、

創造主の手から離れてしまうからこそ、

名作になるのではないかと…・。

 

私が創造した南雲しのぶは、いつしか私のもとを離れ、

今、自由に闊歩している。

そして創造主(親)である私は、

己の腕から離れていった創造物(子供)を、

まるで“子別れ”の儀式を自ら施したかのように、

少しばかりの寂寥感を抱きながら、

遠くから見守っている。

 

独り占めしてはならない。

引き留めてはならない。

必ず、子である創造物を、創造主は自ら手放さなくてはならない。

その意志を尊重して…。

 

そんな考えを巡らせ、そして今、私はそんな心境でいます。

 

「パトレイバー」

私が考えたこと、想像したこと、感じたこと、たくさん、たくさん、ブログにしました。

たくさんの貴重な考察や感想も頂きました。とても楽しく、心躍る内容でした。

ありがとうございます

さあ、

頃合いですね。

少し、ここから、離れましょう。

 

インフルエンザの予防接種はしましたか?

私は今週、痛い思いをします。

皆さん、もう少しの間、辛抱してくださいね。

おやすみなさい。