玄関の靴箱の上に置いてあった置物…

私の宝物の一つだった沖縄の素焼きのシーサーの仮面が床に落ち、

粉々に割れていました。

破片があたり一面に飛び散っています。

魔よけの役割を担うというシーサー。

沖縄旅行の時に、たまたまショップで見かけたものです。

 

その素朴な風合いが私は大好きでした。

値段が高かったので、買おうかどうしようかと、

この魔よけの仮面の前を何度も行ったり来たりして、

諦めようと思ったその瞬間に、

まじまじとその仮面を見てしまったのです。

仮面は、私の家に行きたい、と言っているように見えました。

ゴツゴツ、ザラザラして、決して美しいシルエットではありません。

けれど、何か、この仮面と因縁があるような気がして、

「エイ、ヤッ!」というつもりで購入し、連れ帰ってきたものです。

 

縄文土器と弥生土器とどちらが好きかと尋ねられれば、

私は迷わず「縄文土器」と答えます。

特に初期の頃のものが好きです。

ソフィスティケートされた技術は全くなく、

平らなところに置いてもコロンとひっくり返りそうなバランスの悪い形なのですが、

弥生土器の均衡のとれたシルエットより、

一見稚拙な技術でしか作られていない縄文土器には、

作り手の「情念」のようなものを強く感じます。

整ってはいない、けれど、土器から発せられるオーラのようなものが、

稚拙な技術を超えて心に強烈に訴えかけてくる…。

私はそういうオブジェが好きです。

そして演技に関しても、

洗練された演技よりも、粗削りで、

セリフの言い回しは下手であっても、

その奥から発せられる「情熱」「魂の輝き」が感じられる演技が、

私は大好きです。

 

シーサーの仮面は、玄関の棚に置かれ、

出かけるとき、

帰ってきたとき、

その両方で、いつも私に力を与えてくれるような気がしていました。

それこそ、ほんとうの「魔よけ」。

その魔よけが、棚から落ちていました。

 

足元に粉々になって転がっているシーサーを見た途端に、

私の口からついて出た言葉は、

「何なの!何なの、これは!」

ショックでした。

 

玄関の上り口から廊下にかけて、

夥しい破片が床に飛び散っていました。

このまま靴を脱ぐとケガをしそうでしたので、

私は母に土足のまま入ってくるように言いました。

 

部屋は惨憺たるものでした。

リビングに置かれた買ったばかりの液晶テレビが前のめりに倒れ、

アンテナケーブルによって、宙に浮いているように見えます。

液晶画面には大きな亀裂が入っています。

椅子やテーブルはしっかりと位置を保っていたので、母にはそこに座ってもらい、

私は箒と塵取り、掃除機を取り出して、床に散乱した破片を片付け始めました。

 

台所の突っ張り棚は天井から外れ、

レンジフードの傘に寄り掛かっていました。

台所の床にも、

元の形がどうだったかわからないほどに粉々に壊れた“物”や“器”が転がっています。

書斎に納めてあったCDラックも倒れ、いくつものケースが割れています。

不思議に、リビングにあった突っ張り棚だけは天井から外れておらず、

そこに飾ってあったポトスの鉢は無事。

けれど、その横にあるガスエアコンの上の鉢は転げ落ち、

フエルトの絨毯の上に土が散乱していました。

 

母は胸にハンドバッグを抱いたまま椅子にチョコナンと座り、

何なのこれは!と怒りまくって掃除をしている私を不思議そうに見ています。

その母の視線を感じ、私は母を見ました。

母はあえて目を大きく開け、何かを伝えようとしています。

口元が少し歪んでいます。

笑い出しそうな顔をしています。

私は自分が見えてきました。

急に滑稽に思えて来ました。

「何なのこれは!」と怒っている自分の愚かさ加減に私は吹き出してしまいました。

そして笑いながら、

「地震、怖かった?」

と尋ねた時、母は満面に笑みを浮かべて言いました。

「今のヨシコの方が、怖い!」

 

異論無し、納得・・・。

母はとても冷静でした。

冷静で、穏やかで、いつものように笑いを作る力を発揮していました。

 

母の一言で私の興奮は冷めやり、

掃除が終わったらお湯を沸かしてお茶を入れるから夕食にしましょうねと伝え、

いろいろな破片が飛び散ってぐちゃぐちゃになっている部屋を

綺麗にすることに専念をしました。

母には座って休んでもらっていました。

2枚のゴミ袋に、燃えるごみと燃えないゴミをわけ、

ガラスの破片は新聞紙で包み、どうにか部屋を片付けると、

私は目視で床をチェックしました。

もう、靴を抜いでも大丈夫です。

 

掃除にどのくらい時間がかかったか覚えていません。

液晶画面に亀裂が入ったテレビのスイッチを入れると、音だけが聞こえてきます。

ラジオ化したデジタルテレビ・・・。

アナウンサーの声だけしか聞こえないので、状況が分かりません。

たぶん各地の映像を流していたのでしょう。

けれど何が何だかさっぱりわからずに、私はとりあえずお湯を沸かそうとしました。

夕食にしなければ…。

 

ガスの栓をひねりました。

火がつきません。

電気は送られてきているのにガスだけ断たれているのだろうか…。

携帯コンロを出して準備をし始めたところで、

突然、玄関の鉄の扉を、ものすごい力で叩く音がしました。

そして男の人の声が聞こえました。

「大丈夫ですか!管理会社の者ですけど・・・」

男性が二人、扉を開けて室内を覗き込んでいました。

私の後ろから入ってきた母は、鍵を掛けずにいてくれたのです。

 

一瞬ビックリしましたが、何故玄関のチャイムを鳴らさずに扉を叩いたのかが分かりました。

災害時、電気が通っていてもインターホンの線が切れていたりしたら、

安否の確認が出来ません。

それで扉を叩くのだと思います。

叩く音で、中にいる人たちも反応できます。

反応がなかったら、きっと、バールで扉をこじ開けるのでしょう。

 

「何か困ってることはありますか?」

管理会社の方が尋ねるので、

「ガスが出ません」

「ちょっと待ってください」

二人のうちの一人が玄関の四角い枠から姿を消しました。外でさびたような金属音がしました。

「これでどうですか?」

私は再びガスの栓をひねりました。

点きました。

 

外廊下にはガスメーターなどが収まっているボックスがあり、

管理会社の方はその扉を開き、ガスの元栓を開けてくれたのです。

もうずっと昔のものですが、

東京ガスの「マイセーフ」というガスメーターが外廊下のボックスの中に設置されていました。

地震も含め、いくつもの異常事態に対応する優れもので、

今回は激しい揺れに感震器が反応し、

自動的にガスの元栓を遮断してくれていました。

「ガス、つきました。大丈夫です」

「ケガとかはしていませんか?」

「今帰ってきたところです。大丈夫です」

「わかりました。また、何かあったら来ます」

管理会社の二人の男性は帰って行きました。

 

こういう状況の時、普段見たことのない人が突然訪ねてくると、

一瞬身を強張らせてしまいますが、

その人たちが何者かがわかると何故か、いつもよりホッとします。

まだ30代から40代の方々だったと思います。

二人の管理会社の方が様子を見に来てくれたことで、

自分はやっと家に戻れたのだという安心感が染みわたっていきました。

その時私は、大きな深呼吸を一つ、したのを覚えています。

あれが、安堵の息なのだと、今思います。

家に帰るまでの間、意外と神経を使っていたようです。

 

お湯が沸き、

母と私は、お世辞にも美味しいとは言えない「助六弁当」と「稲荷寿司」を食べました。

時刻は夜の11時近くになっていました。

母は固定電話から父に連絡を取り、次の日の運行状況を見て帰ると伝えていました。

普段歩かない長い距離を歩いてきた母と私は、

やや興奮していたために疲労感を覚えていなかったとはいえ、

身体は確実に疲れていたと思います。

夜中に何が起きるかわからないという不安があったので、

母と私はラジオ化したテレビの音を小さくして休むことにしました。

 

母には私のベッドで寝てもらいました。

私はその下の畳の上に布団を敷いて横になりました。

 

あの夜は何度となく、緊急警報の音がテレビから聞こえ、

また、携帯電話が「ジューイ!、ジューイ!」と鳴り、

大きな揺れに襲われました。

そのたびに、何かあったら母を叩き起こして逃げなければと起き上がるのですが、

母は眠りを貪るように昏々と眠っています。

母はその時82歳になっていました。

あれだけの距離を歩いたのですから疲れていたのでしょう。

そして、落ち着いていたとは言え、はじめて経験する長く大きな揺れに、

やはり尋常ではない緊張を強いられたのでしょう。

ベッドの周りには落ちてくるものや倒れ込んでくるものはなかったので

母は安全な場所で寝ていました。

私はというと、

布団の頭の位置の右側に鏡台があったので、

揺れるたびにガバッと置き、

鏡台の下敷きにならないようにと、熟睡だけはしないようにと心がけていました。

 

夜中に何度も襲ってくる余震に、

私は毎回飛び起き、

次に取るべき行動を考えながら、母の寝姿を見、

そして、揺れが収まっていくと、

また布団の中に潜り込んでいました。