この日私は、

麻布十番にあるスタジオで10時からアニメーションの仕事をしていました。

半年前に、残る左足の股関節にチタンの人工股関節を装着し、

家の中では杖なしで歩けるようになっていましたが、

戸外ではアスファルトや石畳の歩道に微妙な段差があるので

躓いて転ぶといけません。

出かけるときはいつも杖をついて歩くようにしていた頃です。

 

アニメーションの収録は思ったよりも早くに終わり

(私の大好きな女優の山像かおりさんも一緒でした)、

すぐに家に帰ろうと思ったのですが、

その日母が定期検診で婦人科を受診することを知っていましたので、

連絡もせず、不意打ちでちょっと驚かせてみようと、

知らん顔してその病院を訪ねることにしました。

 

最寄りのY駅まで行き、母の通う婦人科に向かって歩いていくと、

50メートルほど先に母の背中が見えました。

母はいつも時間よりも早めに到着するようにしていました。

受診までの時間を、待合室の長椅子でゆったりと過ごすためです。

 

母は2002年、卵巣がんのステージ3Cと診断され、

根治手術と、半年間で6クールの化学療法を受け、

5年検診も見事にクリアしていました。

奇跡的な生還と言えます。

優れた主治医の方と、そのチームの先生方、看護師の方々のお蔭です。

 

先を行く母とは50メートルも離れていたので、

抜き足差し足にする必要もないのですが、

ビックリさせようと思っていた私の気持ちはまさに「抜き足差し足」。

自然と笑みがこぼれてしまいます。

どんな顔をして驚くのかな、と想像するとワクワクします。

すこし歩いていくと、

昔懐かしい電柱が傾(カシ)いで建っているところを、母が左に曲がろうとしました。

そしてフッと後ろに視線をくべました。

母は私を見つけ、「アッ!」と驚いたような顔をしました。

見つかっちゃった!

 

見つかってしまったからにはもう、抜き足差し足は不要。

私は笑顔を向ける母に手を振って近づき、母と一緒に婦人科病院の扉を開け、

受付を済ませ、待合室の長椅子に並んで座りました。

(この日の映像は、もし私の頭が映写機だったら、

上映して見せることが出来るくらい鮮明に残っています)

 

14時40分頃でした。

母の予約時間は15時ちょうど。午後の診療の一番目です。

静かで穏やかな時間。

母も私が付き添っていることに安心している様子でした。

ふと会話が途絶え、

待合室の大きな窓の外の中庭に視線を注いだ時でした。

 

14時46分。

急激な直下型の揺れ。

 

中庭の大木が、まるで柳の木のように大きく揺れています。

私は震度5までの地震は経験していたので、

揺れも長くて20秒~30秒で収まるだろうと思っていました。

震度5であればあまり怖くはありません。

母がパニック状態にならないようにとだけ心を配っていましたが、

30秒経ってやや揺れが弱くなったところで、また急に揺れが激しくなる。

そしてまた少し収束するような気配を感じると再び、揺れが激しくなる。

中庭の大木が根こそぎ折れそうに見えます。

また、揺れが収まりそうになりながら、急に激しくなる。

その繰り返し…。

普通の地震とは、違う!

 

母が長椅子から立ち上がろうとしました。

私は母の腕をつかんで座らせました。

「大丈夫、大丈夫だよ、でも長いね…」

あまりの揺れの長さに、私も恐怖を感じていました。

何かで観た「地殻変動」のすさまじいCG映像が頭の中に映し出されていました。

この病院が、この建物が、潰れるかもしれない・・・。

 

長い時間でした。

ほんとうに、ほんとうに、長い時間に思えました。

揺れが収まりました。

そしてこの病院の院長先生が待合室にやってきて、

母と私を安心させるように穏やかな笑顔を浮かべて言いました。

「この建物は震度6まで大丈夫ですからね」

もう70歳をとっくに超えている方でしたが、身長が180センチ以上もあり、

この年齢の人にしてはとても大柄な方です。

その方が院長で、母の主治医のお兄さんにあたります。

 

しばらくして今度は母の主治医がやってきて、

「震度6だって!」

と、いたずらっ子のような表情をして言いました。

不謹慎と思われる方もいるかもしれませんが、

長い間この先生にお世話になっていると、

それが、この先生の、患者さんを安心させるやり方なのだと分かって来ます。

お兄さんが穏やかに言い、

弟さんが、明るく茶目っ気たっぷりに、患者さんの不安を消してくれるのです。

そして、母と私を診察室に促して、血液検査の結果等を説明し、

安定していて大丈夫だと告げると、処方箋を書いて渡してくれました。

 

母は最初の入院の時に、この先生と相性が合ったようです。

母は100%先生を信じ、全快することを疑いませんでした。

その結果、先生と母との間に信頼が築かれ、

それ故に、母は一挙に回復したのだと私は思っています。

信じるという力は、人間の自然治癒力に大きな影響を与えるのだと、

母の入院時に私が必死な思いで読んでいた悪性新生物に関する研究書に書かれてありました。

 

病院を出て薬局へ行く少しの間に、私は携帯で父に電話をしました。

繋がりません。

 

それまでも地震があると、

しばらくの間携帯電話は繋がらない場合が多かったので、

もう少ししたら復旧するだろうと思い、薬局へ…。

母と私は薬が出されるまでの間、薬局内のテレビを見ていました。

 

どこかの漁港が映し出されていました。

海面が港の市場の屋根まで上がり、

競りで使われる木製の箱などが波に飲まれ、

押し流されていくのが見えました。

たぶん定点カメラからの映像だったと思います。

木製の箱が海水に巻き込まれ、踊っているようにクルクルと回っていたりするのを見ながら、

そこに人の姿が見えなかった、という、ただそのことだけで、

私は、この瞬間、

多くの人の命が奪われていたことすら想像もできませんでした。

むしろ、漁港に人の姿が見えなかったので、

皆、避難しているのだろうと思っただけでした。

 

この時、私はまだ、この東日本大震災の本当の恐ろしさを知らずにいました。

 

薬を貰い、母と一緒に最寄りのY駅に向かうと、

改札口に立て看板が出されていました。

電車が止まっているのが分かりました。

ならば、タクシーに乗ろうと、タクシー乗り場に行くと、

すでに10人ほどの人が並んで待っていました。

 

駅の前はロータリーになっていて、

その中央に、

芝生と短い丈の植物が植えられている丸い花壇のような場所がありました。

そこに、若い男の子と女の子が数人、腰を降ろしています。

その若い子たちはそれぞれ離れて座っており、

知人や友達同士ではないのだとわかりました。

お互いに話しかけることもなく、ただ、どっかと腰を降ろしているのです。

 

タクシーはなかなか来ません。

余震が何度もやって来ます。

私の後ろには、60歳ぐらいのどこかの奥様が並んでいました。

私に話しかけてきます。

聞いていると、とてもデリケートでプライベートな話をしています。

奥様の口の動きは止まりません。

赤の他人に家庭内のことを曝け出すように、微妙な話をしてきます。

そんなことを話しても大丈夫なの?と、

聞く者が首を傾げてしまうような内容まで…。

私は少し、困ってしまいました。

 

話を聞いているふりをしてチラッとその方の表情を見ると、

奥様の意識は私には向かっていないということが何となく分かって来ました。

ただしゃべっているだけ。

私を見ているものの、私とコミュニケーションを図ろうとしているのではありません。

この何とも言えない状況をどうやり過ごしてよいかわからず、

普通なら自分の耳に届く街中のほどよい喧騒が、今はまったく感じられないこの「奇妙な静謐感」を、

この奥様は振り払おうとしているようでした。

 

たぶん、怖くて怖くてたまらなかったのでしょう。

誰かと何かを話していないと、不安で不安で、

居てもたってもいられなかったのではないでしょうか。

皆、怖い思いをしていました。

 

怖い思いをしている時、

それをグッと堪えている人と、

怖さに耐えられないがために饒舌になってしまう人がいるようです。

その奥様は、後者の方だったようです。

パニック状態に陥っていたのかもしれません。

 

パニック状態は勢いよく広がって行くことがあります。

多くの人を巻き込みます。怖い現象です。

私は母を心配しました。

巻き込まれたらいけない・・・。

その奥様が饒舌になってしまうのは理解できましたが、

それが別の人へと伝染してしまうのはあまり良いとは思えず、

タクシーもやってくる気配が全くなかったので、

私は母を促し、乗り場から離れて別の大通りに向かいました。

そこならもしかしたらタクシーが捕まるかもしれないと思ったのです。

 

ロータリーを離れ、商店街を200メートルほど歩いた先に大通りがありました。

そこに出た途端、自分の考えが甘かったことを思い知らされました。

 

大渋滞です。

空車のタクシーは一台もなく、バスも満員。

乗用車や営業用の車が、大通りをソロソロと進んでいる、という状態です。

特に、郊外に向かう道は、まるで道ごと駐車場になってしまったように動きません。

 

無理だと思いました。

実家まで歩くといっても8キロ~10キロあります。

高齢で、腰に持病を持っている母には無理だと思いました。

そして、杖を突いている私にも…。

 

何の策もなく、私は母を連れて、元来た商店街へ戻って行きました。

不思議なもので、

こういった天変地異が起きると、

天候も急変するものなのですね。

 

この日の朝は3月初旬とはいえ、暖かい日でした。

薄手のオーバーで十分だったのに、

急に風が強くなりはじめ、寒くなって来ました。

空にも黒い雲が急激に広がり始めていました。

体もなんとなく冷たくなってきたので、

私と母は商店街にある「コロラド」という喫茶店に入りました。

他に客はおらず、店内は閑散としていました。

私と母は奥付きのテーブルを選び、そこに座ると、二人でホットココアを注文しました。

ありがたいことに母は、私と一緒にいるということだけで安心していたのでしょう、

怖がることもなく、ごく普通の様子を見せていました。

 

 <この後は、次に、続く>