<養成所の新年会で・・・>

 

先週の25日、土曜日。

新アニメの収録を終え、そこからアプトプロ養成所の新年会に向かいました。

駆けつけで出席したので、お開きの一時間前にお店に到着。

皆、気持ち良さそうに酔っていて、

ワイワイガヤガヤ、明るくパワフルな雰囲気でした。

 

今回受け持ったクラスの生徒たちには、これから、

難関の難関、事務所の預かりになれるかどうかの試験が

2月に待ち構えています。

皆、どうなるだろうという不安で押しつぶされそうなのかもしれませんが、

それをしっかりと心の底にしまい込んで、

この瞬間だけは“忘れる!”“楽しむ!”と、

同期生や講師の方々、アプトプロのスタッフの方々と熱っぽく語り合い、茶目っ気を発揮し、

笑い合いながら共有の時間を楽しんでいました。

 

この期は2クラスでした。

私が二つ目のクラスの授業を終えたのは、11月の第一週目。

それから2か月半ほど時間が経っています。

 

この短い月日の間に、稽古場で見ていた生徒たちの顔つきは、

皆、変化していました。

 

稽古場で見ていた生徒たちは、それこそ『生徒君!生徒さん!』という感じでした。

30代の方もいましたが、大元にある雰囲気は皆、同じように見えました。

一人一人個性は異なるのですが、学びたい、もっと上手くなりたいという思いを皆、

心に秘めています。

そしてそれぞれ個性の相違があっても、

“どうしたら殻をやぶれるのだろうか”

“この役をどうしたら演じられるのだろうか”

“どうやっていいかわからない”

“自分が歯がゆい”等々、

皆、同じ複雑な思いが交錯し、

そのせいか、少し腰が引けているように見えました。

自信を持つ前に、どうしても自分を疑ってしまうが故に、

据えるべき肝が、ムズムズ、ゆらゆら、揺れてしまうのです。

 

自分を疑う、ということは、表現をする者にとってはとても大切なことです。

必須と言っても過言ではありません。

ある意味で、表現に携わる者は『○○研究所の研究員』みたいなもので、

科学者の卵と似ているところがあるような気がします。

たぶん彼らが科学や医学を専攻していれば、とても優秀な研究者になれていたでしょう。

 

“これで良いわけがない!”と自分を疑うことによって悩み、

見えない何かを手探りし、試行錯誤、七転八倒を繰り返し、

グッと堪えて起き上がり、何がいけないのかわからない~!と髪の毛をかきむしり、

途方に暮れて涙したり、凹んだり…。

 

そして、そこから『必ず行かなければならない、先』へと歩み出すと、発見があり、

それにインスパイア―されて、

新しい解釈や自分なりの方法で、役柄を演じ直してみます。

演じ直してみると、また、新しい感動を得、発見したものに再度驚き、

その繰り返しをして、皆、成長し、上達していくのです。

だから自分を疑うことはとても大切な事なのです。

もちろん、その精神的な状態やプロセスは、あまり快いものではありませんが、

感動と発見によって気持ちはガラッと変わります。

 

稽古場では、生徒たちはそのプロセスを四苦八苦しながらも

しっかりと辿っているように見えました。

そこから何を身に着けたのか、何を得たのかは、

それぞれの生徒に尋ねてみなければわかりませんが、

新年会が催されているお店の中で、生徒たちの顔が、皆、

俳優さんのように垢ぬけて見えました。

生徒の顔、ではありませんでした。

 

子供っぽい面立ちの女の子が少し大人になったようで、

ほのかな色気を漂わせていて、それでいてまったく嫌らしくない。

一つの覚悟をしたようで、地に足がしっかりとついているように見える子もいました。

女子は、皆、大人になったようでした。

また、実際の年齢にしては少し年上に見えた男の子たちも、

まるで“悪ガキ少年”“やんちゃ坊主”のように、キラキラ生き生きして見えます。

格好つけるのをやめて、努力し、思考を巡らし、

“今のあるがままで良い”と、良い意味で開き直ったかのようでした。

(そう! 格好つける必要など無いのです。

そのままで、皆、コツコツと努力していれば、自然と格好良くなってくるのです!)

 

私以外の講師の方々も情熱をこめて教えていらっしゃるので、

養成所の生徒たちはしっかりとその“熱”を吸収してくくれているのだなぁ、と、

何となく幸せな気持ちになりました。

 

声優になるのも、俳優になるのも、

また、演技力がついてくるのも、レベルを上げていくのも、

容易なことではありません。

ごく普通のお勤め人になったとしても、

属した社会では、数多の事柄や仕事を学ばなければならないわけですから、

皆、生きていく、成長してくことは容易なことではないと思います。

 

けれど人は、不思議なもので、頑張っても頑張れなくても

それぞれ異なった速度で、皆、着実に成長していくのではないかと…、

生徒たちを見ながら、そんなことを思いました。

 

「頑張れ」という言葉を、私はあまり口にしません。

活(カツ)を入れなければならないとき、

その子に“心の余力”があるなと見た時はこの言葉を使います。

けれど、“心の余力”がなくなっているなと見た時は、

決してこの言葉は使いません。

この言葉は時と場合によっては、鋭い刃となってしまうからです(私自身の経験から、ですが・・・)。

 

“心の余力”がないけれどその子が持っている質が素敵なものだったら、

少々演技がぶらついたとしても、一番良いと思ったところを私は指摘して、

「あそこが変わったね、良かったよ」

と本気で言います。

トータルとしては及第点ぎりぎりであっても、

“心の余力”を少しでも取り戻してくれればと、そう思いながら言います。

そして、レッスンを終えて帰る道すがら、心の中で、

“果たしてあの言葉はあの子にとって正しい言葉だったのかどうか”と、

自問自答します。

答えは出ません。

 

人間を知るのは、

それこそ宇宙の成り立ちを知ることと同じくらい、難しいことだと思っています。

その子にとって的確なアドバイスとなる言葉を見つけるのは

本当に難しい…。

そんなときの私はきっと、背中を丸め、項垂れて歩いていると思います。

私自身が一番、“小っちゃな人間”になってしまっている時だと思います。

いくつになっても、小っちゃくなってしまう時があるのです・・・。

 

そして、項垂れた私を救ってくれるのが、それ以降のレッスンで見る、生徒たちの“変身”した姿。

その時初めて、言って良かったと、安堵できます。

 

皆、成長していく・・・。

私が手取り足取り教えなくても、

皆、自力で成長していくのです、ね。

 

さて、預かりになれるかなれないかの試験が、これから始まります。

教えるという仕事で一番重い責任感に襲われるのは、この時期です。

 

切ない…、

ほんとに、切ない。

物悲しい…。

『どうか、どうか、この先、みんな…・…』と、

祈るような気持になります。

 

けれどそれは、私よりも、アプトプロ養成所の“キミヒロ”さんの方が、

ずっと、ずっと、強く感じているのではないかと思います。

アプトプロ養成所に通った生徒たちは、

“キミヒロさん”に会えたことが一番幸せなことだと、

思ってくれているかな? 

気づいたかな?

 

生徒たちに言いたい!

“キミヒロ”さんのことを、けっして忘れてはいけません。

彼が一番、あなたたちの事を本気で思い遣っていたのです。

そしてこれからもずっと、思い遣って行くのです。

“キミヒロ”さんは、そういう方なのです。

 

あなたたちの一番近くにいたのは、いつも、“キミヒロ”さんなんです。

厳しさと深い優しさを持ち、理解をしながら、

何かあったら静かに寄り添っていてあげようと、

キミヒロさんはいつも考えています。

 

生徒諸君、これから先、どんな人生を歩んでも、

“キミヒロ”さんの『心』を、記憶にしっかりと刻み付けておいてください。

みんな、わかっていますか? 

わかっているね。

わかっていると思います。

みんなが、わかっていると、

私はそう信じていますよ。

 

さて、

試験・・・。

心の窓を思いっきり開け放ち、

楽しく、清々しい気持ちで、

しっかりと、

“遊んでくださいね”