さて、熊野の旅、続編です。

前回は、やっと高山寺に辿り着いたところでした。

 

想像力を刺激する高山寺の本堂裏の庭園を後に、来た道を戻り、

多宝塔が建つ区画に入ってすぐに右手に曲がると、

石畳の先が少しカーブしている小道があります。

その小道に入ると、少しずつお墓が見えてきました。

高山寺の墓地です。

標識のようなものがあり、

「植芝盛平翁」と「南方熊楠氏」のお墓がどこにあるのかすぐにわかりました。

「南方熊楠氏」のお墓に一礼して通り過ぎると、

墓地の一番西側の奥に大きな碑がありました。

田辺市の合気道の団体が植芝盛平翁を称えて建てたものでした。

そしてその横に、

合気道創始者のお墓がありました。

 

驚くほどごく普通の墓石。

私の父方の祖父母のお墓とさほど大きさが変わりません。

いえ、むしろそれよりも小ぶりです。

いつも誰かが必ずお参りに来ているのでしょう、

まだ瑞々しい可愛らしい仏花が花立に飾られています。

 

想像していたよりも簡素なお墓。

それが、偉大な「植芝盛平翁」のお墓でした。

毎年ご供養をしていらっしゃるのだと思います、

卒塔婆にはお孫さんのお名前が記されています。

 

墓はその人を表している…。

そんな気がしました。

 

偉大な足跡を残した方は、その方自身の根本に謙虚さがあると思います。

生きて一つのことを成そうとしている間は、

逸話をいくつも残すほど豪快で、インパクトが強いために、

その存在が強く印象付けられますが、

その方自身の基本は「謙虚である」・・・。

そのことを証明しているような「植芝盛平翁」のお墓。

盛平翁の合気道を受け継いだお子さん、お孫さんも、

簡素な墓石をそのままにしていらっしゃるということは、

創始者の教えを深く理解し、忠実に守っていらっしゃるからではないでしょうか…。

そんな印象を受けました。

 

『どうか、少しずつでも、合気道が上達し、

その根本の考え方の元、充実した日々を送れますよう、

お力をお貸しください…』

 

もしかしたら植芝盛平翁は、

「この人誰? 知らないな」

と思ったかもしれませんね。

謙虚ですっきりとした墓石の前で手を合わせると、

植芝翁を私は昔から知っている!という気がしてきます。

(勝手にそう思ってしまってもいいですよね、植芝先生!)

そして、コツコツと練習していればいつか必ず出来るようになると、思えてきます。

 

高山寺の墓地には、ところどころお供えしたばかりの仏花が見えました。

お花のあるところとないところに関わらず、

墓地全体がきれいにお掃除されています。

遠くに海が見えます。

海の向こうに極楽浄土がある…。

昔の人は海に向かって旅立って行ったのでしょう。

墓地の敷地の先端に柵があり、その下は急激に傾斜しています。

私は柵まで歩き、昔の人々が目指した極楽浄土はどこなのだろうと、

少しの間、遠くの海を眺めていました。

そして、振り返った途端…。

 

私は声をたてて笑ってしまいました。弾むような気持でした。

振り返ると墓石が全部、私の方を向いていました。

その墓石一つ一つが、気持ちよさそうに私に笑いかけているように見えてしまったのです。

なんておおらかで、明るい墓地なのだろう。

墓石が皆、清々しく、幸せそのものといった感じで、ニコニコと微笑んで見える・・・。

 

熊野に来てから私は何度となく、素敵な錯覚を起こしていました。

高山寺の墓地も又、私だけの錯覚なのかもしれないと思ったのですが、

後でご住職のお話を伺って、

これは私だけの錯覚、想像ではないとわかりました。

 

お住職が話してくださいました。

「熊野古道が世界遺産に登録されてから、

ヨーロッパからこの高山寺を訪れる観光客が多くなった。

そんな中、何人もの方が、ここにお墓を作れますか、と尋ねます。

とっても気持ちが良いと皆、口を揃えておっしゃる。

ただ、法要の時にご家族の方がわざわざここまで来られますか?と問うと、

“ああ、そうか”と言いながら、この墓地にお墓を立てられたらなぁ、

と残念がるのです」

 

私だけの錯覚ではなかったようです。

錯覚どころか、ここを訪ねてきた外国の多くの方々が、

この墓地がとても素敵だと思ってしまう・・・。

陽が燦燦と降り注ぐ墓地です。

そこに眠っている方々は「死」を超越して、この墓地の中に、生きている。

それも、幸せそのものといった感じで・・・。

晴れ晴れとした気持ちで、ご住職に御朱印を記していただき、

私は高山寺を後にしました。

 

そして。

次に向かったのは「闘鶏神社」。

 

武蔵坊弁慶の父君ゆかりの神社です。

源氏に付くか、平家に付くかを「闘鶏」で決め、

源氏に加わったというのがこの神社の名前の由来です。

それだけでなく、

明治時代の大洪水で破壊されてしまった熊野本宮の姿が、

そのまま少し小ぶりになって残っていると言われる場所。

神社の裏には、鳥のさえずりが絶えない自然林があり、

その自然林には決して手を加えてはならないと言ったのが「南方熊楠」だったとか…。

 

闘鶏神社の駐車場に車を止め、鳥居を潜ると、

たった今「お七夜」の儀式を終えたばかりの若いご夫婦が、

待ちに待ってこの世に生まれて来た赤ちゃんを抱いて、出ていらっしゃいました。

すれ違いざま、「おめでとうございます」と小さく声を掛けると、

お二人とも、幸せいっぱいという笑顔で

「ありがとうございます」・・・。

 

さて、神社の境内には20人くらいのツアー客がいました。

権禰宜さんが、闘鶏神社の話を、笑い話を交えて説明していらっしゃいました。

声が良く通ります。

なのに、痩せていて、お腹と背中がくっつきそうなくらい痩身の方です。

きちんと食べてるのかなぁ・・・。

 

この闘鶏神社には、熊野を一緒に旅しているご夫婦のお知り合いがいる、とのこと。

ここでもご祈祷をしていただこうということに、相成りました。

 

因みに、神社での位は、

「宮司」、「権宮司」、「禰宜」、「権禰宜」

という順番なのだと耳にしましたが・・・。

今度、しっかりと調べてみましょう❣