前回、肝に銘じたことに

「自分のやり方を決して生徒に押し付けない~~」と書きました。

それがとても難しいことも…。

 

プロダクション・エースさんの演技研究所でのレッスン。

7分くらいの男女の掛け合いの短い戯曲を教材として選んだことがありました。

状況設定はなく、役柄の指定もないので、生徒たちの自由な発想で演じてもらいました。

 

演技をするとき、演技者は、日常のリアル感よりもオーバーな表現になるのが常です。

つまり「演劇的な演技」になります。

その方がインパクトがあり、ドラマティックであるので、

「作られたストーリー」の中でのリアルな感覚に近づく表現方法だと、

たぶん、多くの人がそう捉えていると思います。

私の中にもその捉え方が残っています。

 

ドラマは、日常そのままを表現しているわけではなく、

日常の中のドラマ性のある出来事をピックアップし、クローズアップして表現しています。

ですから、「演技」は、普段の“ナチュラル”な表現では物足りなく感じますし、

ナチュラルな表現は、見た目の変化が乏しいので、

逆に「下手な演技」と映ってしまいがちです。

 

「D君」、と呼びましょう。

最初、私の目にD君の演技は、「表情のない演技」と映りました。

もう少しドラマ性を出すようにとアドバイスしました。

 

2度目のレッスン時も、D君の演技は変わりません。

私が彼に抱いた印象は、

飄々としているけれど頭の回転は速く、感受性も鋭く、集中力も高い、というものでしたので、

なぜだろうと首をかしげてしまいました。

私はもう一度、同じアドバイスをしました。

その時一瞬、D君の表情が変わりました。

何かを伝えたいようなそんな表情を見せたのですが、

D君はすぐにそれを納めてしまいました。

私はそれを忘れていました。

 

3度目のレッスンの時に、D君の名前を呼んだ時、

突然、表情が変わった時のD君の姿が、強烈に思い出されました。

 

私は時々、意味もなく、ある一瞬の光景を克明に記憶してしまう癖があります。

そしてそれを、記憶の領域にずっと貯め込んでいるらしく、

何の前触れもなく、また脈絡もなく突然に、記憶した光景が蘇ることがあります。

子供の時から私にはそういう癖があり、そのことが、ひらめきに繋がることが多々あります。

そして時に、それがトラウマに変わってしまうことも・・・。

 

D君が板に着き、演技が始まる寸前。

私は、D君が求めている、あるいは目指している演技がどんなものかがわかった気がしました。

彼が伝えようとして納めてしまったことも、

ずっと変わらない演技の意味も理解できた気がしました。

D君の演技を見、チェックしてみました。

納得しました。

 

表現は、時代とともにどんどんと変化して行きます。

20年前、30年前の“演技”が今、古めかしいものとしてあまり求められなくなっていたりします。

表現というものは、一つところにはとどまらず、

常に思いも寄らぬ形に変化して行くものだと私は思います。

私の20年前、30年前の演技は、今現在ではあまり評価されないものになっているかもしれません。

そして、それで良いと私は思っています。

むしろそうであった方が「演技」の進化に繋がると考えています。

キャリアがあったとしても、そのことに安穏としていたら、自分の表現にどんどんカビが生えてしまう…。

いくつになってもこれから先を見据え、これから先の「表現」に目を向けていかなければならない・・・

暗中模索、四苦八苦、試行錯誤、自己改革等々、それを続けていかなければならない…。

これはとても難しく、ある意味、辛い作業です。

今まで築き上げたものに、自らハンマーを振り下ろし、粉々に壊さなければならない。

それを何度も繰り返していくのですから…。

 

私はD君に

「ごめんなさい、ぜんぜん気が付かなくて…。

 あなたは、限りなくナチュラルに近いリアルな演技を目指していたのね。時代の先を見ていたのね」 

と伝えました。

D君は、表現者としては未熟なところがまだありますが、確実に、これから先の時代の「表現」「演技」を目指している。そこに、自分の目標を定めている…。それがわかりました。

 

それに気づかなかったら、私は不適格なアドバイスばかりをし、

D君の個性や能力を潰していたかもしれない…。

 

前回のブログで、

生徒たちから学ばせてもらっている、発見させてもらっていると書いたのは、

こういうことです。

 

D君以外にも、

なかなか克服できない問題と格闘しながら、少しずつ表現のレベルを上げていく生徒もたくさんいます。

レッスンの時、突然優れた表現をしたり、その生徒自身がとても魅力的な人間に見えてきたり…。

 

「教える」ということを

“さして代わり映えのしない日常の一端”

と位置付けてしまったら、

「素晴らしい発見」は見逃してしまう。

そして、見逃しているかもしれない、と自分に問いかけてみることも忘れてしまう。

何も気づかなくなる。

やがて、何も残らないまま、『ただ教えている』だけになってしまう…。

 

教える、ということだけでなく、

日常の出来事に一つたりとも同じ事の繰り返しはないと、私は思っています。

小さなことでも、その変化を捉え、ちょっとだけ考えてみる。

想像してみる。

想像することを遊んでみる。

それを積み重ねていく・・・。

 

『ごく普通の日々の中で、人知れず、それを続けていくことがとても大切なのだ』

 

そう教えてくれたのは、

亡き父と母でした。

 

二人とも、

どこにでもいる、

ごく普通の人間でした。