本日は歯科治療の後、宣言通りに『Fukushima50』を見て参りましたよ。
この映画が予告で流れてきた時、最初に抱いたのが
(まだ早くねえか?)
という感覚。
この手の「美化物語」を打ち出すには、まだ早い、全然早い、百万歩許して10年後だろう、……なんて思いがぐるぐると。
「福島第一原発に残り続けた名もなき人たちを、海外メディアは“Fukushima50”と呼んだ。」
っていう宣伝文句のなんとクサいことか!
……でも、世界の渡辺謙だし、相棒は『空母いぶき』で噛み付いた佐藤浩市だし、そこまで酷いものではないのかもしれないなぁ。
なんて思いつつ、でもその右下に「あいつ」がいるわけです。
この手のCG再現ドラマで出してはいけない役者、そう「吉岡秀隆」が。
悪い役者さんではないと思いますが、どうしたってクサい演技をしがち?させられがち?な人なので、この人が出るならやっぱりこの映画の方向性はそっちの「美化物語」なんだろう、と。
というわけで、他に見たい映画がなければ行こうかな、くらいの構えだったのが、段々と消沈し、ウイルスのリスクを背負うほどでもないわと思って、回避しようと思ったのです。
……が。
ここにきて、ちょっと面白い状況になってきたのがありましてね。
今月の「Radio Sakamoto」で坂本龍一教授がこの映画を「勧めて」たんですよね。
番組内容は聞き逃しましたんで、どんなトーンで語られてたのかは知りませんが、でもきっと「感動した」とかではないと思います。
この手の映画で感動する人ではないのは十分に知ってますし、なによりも教授は「反原発」「脱原発」の立場に立ってる人ですからね。
多分きっと、福島原発事故を「風化させてはならない」という意味でこの映画を勧めていたのだろう、と。
そう考えると、やはり見ておくべきなのか?と少し思い直したのです。
……が。
今度はツイッター界隈で映画評論家の町山さんが酷評?をしていたのですね。
更には私が現役的に最も好きな小説家である平野啓一郎氏もツイッター上で「見る気もない」「見たいとも思わない」みたいなツイートをしてて、そうなのか?と。
止めは今話題になってる、糸井重里氏の「2時間泣きっぱなしだった」っていうツイート。
それは流石にウソだろ!
と思いますけど。
でも、そんなこんなで駆け巡ったのがなんなんだ?!このシビルウォーは!!というものでして。
賛成と反対、肯定と否定、みたいな二元論では分けられないとは思いますけど、それでも最も好きな音楽家と最も好きな小説家が対極に立ってるっていう構図。
いや、教授も平野氏も「原発反対」という点では合致してると思いますよ?
でも、そのシビル・ウォー状態になってるこの映画、……そこまでならもう、それは自らの目で確かめるしかないな、となりまして、果たして今日の正午の回を見に行ったわけでした。
ちょうどいい時間帯にドルビーシネマ版もあったんですが、それは流石に回避。
そこまでしてこの映画にお金を払いたくはないです。
あと原作の門田さんのスタンスも、ツイッターを見る限りでは私は「好きではない」です。
……まず感想から書きましょうか。
正直なところ、私としては見てよかったと思いましたね。
ただし、それは「映画」としてではないです。
「映画」としてなら、別に見ても見なくてもどっちでもいいっていう感じです。
これは「映画」ではなく「資料」だと思いましたね。
あの時、福島第一原発では何が起きていたのかを理解するための「資料」。
そういう風に考えれば、まあ見ないよりかは見た方がよかったと思います。
勉強になった。
そんでもって、やっぱりこんなことを引き起こすリスクの高いものを使い続けることの怖さをすごく感じましたよね。
こんな危険極まりないことを現場に人に負わせることなんて、恐怖でしかないです。
劇中でもセリフとして「唯一の被爆国なのに、なんでこんな危険なことになってるんだ?!」っていうのがありまして、そのセリフの裏には「お前たちは過去から何も学んでいないのか?」っていう警鐘が感じ取れましたしね。
もちろん、今すぐに、というわけにはいきませんでしょう。
でも、少しでも早く代替エネルギーにシフトしていく必要は感じ取れましたね。
という原発に対する思いは一先ず措くとして。
「映画」としての感想は、……まあ普通ですよね。
冒頭、……まあ当然ですが2011年3月11日2時46分から始まります。
地震が発生し、海が引いていき、大きなうねりの果てに津波と化し、そんでもって福島原発に襲いかかるわけです。
その津波の光景は、久々に見ましたが、やっぱりちょっとあの時のことを思い出して、束の間胸が苦しくなりますよね。
あくまで原発に焦点を当ててますんで、地域住民の被害についてはそこまで深く入ってませんが、でもやっぱり想起させられます。
で、中央制御室(現場)に残ってる佐藤浩市たちと、緊急対策室にいる渡辺謙とのやりとりが始まっていくわけですが。
見てて気づいたんですが、この映画の主人公、渡辺謙じゃないんですよね。
佐藤浩市の方。
てっきり謙さんの方だと思ってたんですけど。
パンフレットも、表紙が佐藤浩市で、裏表紙が渡辺謙ですし。
そういう点を考えると、一番に描きたかったのは、「どうやってメルトダウンを防いだのか」っていう所なんでしょうね、って。
誰しもが気になるであろう「誰が戦犯なのか?」っていう描写、……まあ無くはないです。
所謂「本店(東京電力)のお偉方」として篠井英介がすっげえ悪い感じで出てきますし、社長や会長のマヌケっぷりも出てますし。
時の政府の菅首相や枝野官房長官も、佐野史郎や金田明夫が演じてますが、ある意味で「いい感じ」にきちんと描かれてます。
あの時、菅さんが直接現場に出向いたことで、現場の人々にどれだけの労力を使わせたのか、ということも批判的に描かれてますし、東電本店の人たちの「机上の空論」ムードも嫌味ったらしく描かれてます。
飽くまでも「この映画は真実に『基づく』物語」なので、どこまで正しく、どこまでがフィクションで、どこをドラマチックにしたのかはわかりにくいですが。
時の野党の総裁が流したと言われているデマメール、なんていうのも描かれてませんが。
でも、大事なことは一つ。
現場の人たちへの感謝の念。
それだけですよね。
むしろ、それしかない。
渡辺謙が演じている吉田所長だって、決してヒーローとしては描かれてないです。
最後の最後で神頼みですからね。
逆に言えば、そこまで追い詰められてしまっていたんでしょう。
でも本当に、奇跡の様な形で、2号機建屋が爆発しなかった。
その奇跡を「カミカゼ」的に捉えるのならば、そんな人はすぐに「豆腐の角」ですよ。
本当に「運がよかった」だけで、次は絶対にないでしょう。
そこをきちんと描いてなかったのは、ちょっと残念でしたかね。
まあ、謙さんがチラっと語ってはいましたけど。
「自然をなめていた」って。
制御できないですよ、やっぱり。
あと、やっぱりどうしてもイメージしてしまったんですが、上記の物語を見ながら、どうしても頭の中に『ゴジラ』が浮かんでしまいましたよね。
ほんと、ゴジラほど、原子力の、核の、制御できない自然と科学の怖さを描いたものってないな、って。
『シン・ゴジラ』っぽい画が結構ですんで、それも理由の一つかもしれないですけど、でも『ゴジラ』ってやっぱりすごい映画だったんだな、って。
そう思いましたね。
というわけで、『Fukushima50』、それなりに噛み締めました。
家族パートの必要性は、……あったのかなぁ?
描かなくては嘘なんだろうけど、でもこの映画のテーマにおいては不純物ですよね。
斎藤工と泉谷しげるなんて、絶対に要らないキャスティングですし。
お勧めできるかどうか、……は、もう、「お好きにどうぞ」としか言えません。
現実を見て、十分に分かってるっていう人なら見る必要はないですし、ちょっと風化しちゃってるって思ってる人なら、学び直す意味で見てもいいのでは?って感じですね。
ただ、見るのなら「今」なんじゃないでしょうかね?
さて。
次は、……グザヴィエ・ドランを見に行くか、三島由紀夫を見に行くか、ですかね。
ではでは。