『SCOOP!』(致命的なネタバレあり) | yoshi's drifting weblog -揺蕩記-

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私の一番好きな言葉、揺蕩(たゆた)う。……
日常の、ふとした何気ない出来事について、
その揺蕩う様を書き留めていきます。

PSVRの良さをイマイチどうしても伝えきれずにモヤモヤしたまま就寝し、起床し、仕事に出かけて、後遺症的なフワフワ感の只中にいて、ふと気付きましたよ。

 

 

そう、PSVRって「起きながら夢を見ている感じ」に近いな、と。

 

 

私、昨日、「坂本龍一による音楽の授業に出てて、『好きなCD音源をサンプリングして分解し、それを元にジャズを一曲作る』という課題をやることになって、 YMOを使うべきかどうか?と悶々としている」みたいな夢を見たんですが、PSVRの体験って、その夢の感じに近かったんですよね。

 

 

私の目の前に坂本龍一は存在してて、会話も成立するし、私もちゃんと考えて行動できるし、そこから派生する物語もあるし、自分の周りの景色も全周囲形成されてるし、……っていう風に、普通の「世界」がそこにあって、私はそこで行動してるんですけど、でも現実じゃない感じもどこかにぼんやりと、膜の様に張り巡らされてる感覚もあったりして、みたいな?

 

 

そんでもって「他の人に巧く伝えられない」という特性も、夢に近いかな、と思いますね。

 

 

そんなわけで、起きながら夢を見てみたい人はPSVR、良いんじゃないでしょうか?

 

 

ではでは。

 

 

 

 

 

 

 

……じゃなくって!!

(・Д・)ノ

 

 

DSC_0066.jpg

 

 

PSVR購入前のソワソワ感に苛まれつつ、福山雅治主演、大根仁監督最新作『SCOOP!』を見て参りましたよ。

 

 

大根監督に対する「及第点以上の良作が保障されてる」という信頼度の他に、写真を題材にしているというのも惹かれた所ですね。

 

 

一応、私、写真学科卒ですからね。

 

 

この映画の中盤にも私の先輩である宮島茂樹さんが出てきましたし、ロバート・キャパのベタな話なんかも、すごく良くわかる部分でありました。

 

 

……ただ、この映画、感想を一言で言うと「ゲス・エンターテイメント」ということになるんですが、それ以上に終盤え?こんな映画だったの?!

という衝撃的な展開になるんです。

 

 

まさかのネタバレ厳禁案件だったのか!と。

 

 

なので、これから見る予定の人は絶対に読まない様にしてくださいまし。

 

 

ネタバレなしで書いても良いんですが、この映画を通して私が思ったことを書くためにはきっとネタバレをしなくては書けない羽目になりそうなんで、ね。

 

 

(以下、ネタバレありの感想文)

 


というわけで、まずは物語をざっくり説明すると、福山雅治演じる都城静は、かつては数々のスクープ写真を撮ってきた凄腕カメラマンだったものの「ある出来事」をきっかけにしてパパラッチ専門のカメラマンに成り下がっていて、そんな彼を再び輝かせようと考えてるかつての上司で雑誌「SCOOP!」副編集長の横川定子(吉田羊)は、静に30万円でスクープネタを買い取る代わりに新人記者の行川野火(二階堂ふみ)とコンビを組む様に提案する、……という感じです。

 

 

そんな感じで福山と二階堂のコンビが結成され、スクープ写真が撮られていくことになっていくわけですが、その前半の流れがなかなかの悪性エンターテイメント感でして、一言で言えば「ゲスだなぁ」と。

 

 

劇中のセリフを借りるならば、「パパラッチのやってることは芸能人のケツを追っかけまわすゲスな汚れ仕事かもしれないけど、じゃあなんで皆はそんな芸能人のスキャンダル記事を読みたがるんだ?」と。

 

 

つまり、お前らも読みたいんだろ?と。

 

 

それはつまり、お前らだってゲスじゃないか?

 

 

でもって、それのどこが悪い?とくるわけです。

 

 

誰だってそういう覗き見願望みたいなものはあるだろう、と。

 

 

この映画において取り上げられるスクープ(イベント)は大きく4つあるんですが、そのうちの前半2個を使って、そういったメッセージがババーンと打ち出されるのですね。

 

 

で、それがまた無茶苦茶なんですよ。

 

 

そのギミック感というかガジェット感が、すごく見てて楽しかったですね。

 

 

この映画を見る前は、同じくパパラッチ映画であった『ナイトクローラー』と対比的に見れるかなぁと思ってたんですが、『ナイトクローラー』はパパラッチとライバルパパラッチだったり売り込むメディアの人間だったりといった「内輪の物語」だったのに対し、『SCOOP!』は撮影者と被写体との「外輪の物語」だったと思いますんで、その点ではちょっと比較する話じゃないかなと思いました。

 

 

が、2番目のスクープである「大物政治家(斎藤工)と人気キャスターとの不倫密会写真」を狙うシーンで、まさかのカーアクションがあったのは、絶句というか、まじか?!という驚嘆が過ぎて笑いがこみ上げてきましたよね。

 

 

ここまで無茶苦茶にぶっ飛ぶんなら、笑うしかねえな、と。

 


追っかけてくるSPの車を撃退するために、まあ普通の映画なら「銃による発砲」をするんですが、この映画では「花火による発砲」が行われまして、その安っぽい感じもなかなかな好みでした。

 

 

そうそう、この花火、実は大物政治家とキャスターの不倫密会現場の写真を押さえるために使われたんですが、このカラクリはすごかったですね。

 

 

キャスターのボンテージ姿も噴飯ものの出で立ちでしたね。

 

 

荒唐無稽で非現実的な感がありつつも、でも起こりえないとは言い切れない説得力もそこそこあって、まさに前半のハイライトシーンでしたね。

 

 

そんな感じで、前半はまさに「ゲスのエンターテイメント」といった面白さが凝縮されてた気がします。

 

 

始めはド素人オーラ濃密だった野火がだんだんとゲスに染まっていく様も、さすが二階堂ふみといった感ありで見応え抜群でしたし、とにかく楽しかったですね。

 

 

イチオシは「スーパーで買い物している芸能人カップルのすぐ側でわざと商品を落とし、2人がそっちに気を逸らせた瞬間、足元からのアオリで盗撮するっていうシーン。

 

 

笑いつつも、巧い!と唸ってしまいました。

 

 

そんな感じで進んでくるんですが、中盤、そして終盤と、実はこの映画、だんだんと様相が変容してくるんですね。

 

 

まず中盤。

 

 

静をどうにかして昔の様な立派なカメラマンに戻したい定子は、少年少女を4人も殺害した少年が現場検証に臨むのを知り、その犯人の少年の今の顔を撮ってこいと、つまり芸能人のスキャンダル写真ではなく、報道スクープ写真を撮ってこいと静に依頼するのです。

 

 

この辺りでちょっとキナ臭くなってきます。

 

 

『SCOOP!』はグラビアで保ってるんだ!と主張して、そんな報道ネタなんか使えないと主張する馬場(滝藤賢一)と定子がバトる中、気乗りしなかった静を野火が説き伏せて、そのスクープ写真を狙うことに。

 

 

この辺りで静と野火の間に「イイ感じの男女感」が匂い立ってくるんですね。

 

 

この映画、男女の馴れ初め映画という感じがほとんどしなくて、むしろ男女のバディムービー的な側面が強いので、そんな中に色恋を持ち込まれるのは、ちょっと違和感がありましたけど、でもまあ匂わせつつ、でも何にもないパターンかな?と。

 

 

で、最終的に少年の顔写真は押さえることに成功するんですが、それを撮ったのは静ではなく、静に指導されてシャッターを切った野火だったわけです。

 

 

静が事件現場に飛び出て騒ぎを起こして、そのてんやわんやの中で少年をガードしている壁が一瞬崩れ、少年の顔が覗き、それを野火が撮る、と。

 

 

ここの場面で、見えそうで見えない少年の顔に対し「見えろ!」と願ってしまった人は、覗き見願望の強いゲスの人ってことですよね。

 

 

前半でそういう風に誘導されてますけど、でも見てる全員きっとそう思うじゃないですか?

 

 

やっぱり、覗き見願望って、人の根源的欲求なんだろうなぁと思います。

 

 

静の騒ぎのその前に元ラグビー部の馬場ちゃんがマオリ族のハカをした後、現場に乗り込んで騒ぎを起こすという前振りがあったんですが、これはすげえウケましたね。

 

 

特にハカでベロ出すところ。

 

 

野火が写真を撮るというシーンに、師弟愛的な印象が強く出てて、それを引き立たせるために敢えての男女の色恋的ムードだったのかな、と違和感は払拭できました。

 

 

で、この場面の演出がすごく決まってたので、これがこの映画のハイライトで、もうすぐ終わるんだろう、と。

 

 

良い終わり方だなぁ、……と思ってたらまさかの、もう1編ですよ。

 

 

静の悪友で情報屋のチャラ源(リリー・フランキー)がいるんですが、こいつがシャブ中の男で、娘に会わせてくれない元嫁に怒り、同居していた男もろとも銃で殺害してしまう事件が発生、「娘とのツーショット写真を撮ってくれ」と電話を受けた静が出向くというのが最終イベント。

 

 

まずリリー・フランキーの芝居がですね、序盤や中盤に度々出てくるんですが、それがもう完全に田中邦衛なんですよ。

 

 

もう、ワザとやってんだろ?!ってくらいに笑えてきつつ、でも福山雅治とリリーの2ショットっていうのは、否応なく『東京タワー』を想起させられるわけですよね。

 

 

あの物語に含まれていた、郷愁めいた寂しさがこの映画でも滲んでいて、なんとも良いシーンだったんですが、終盤にきてのチャラ源の暴発。

 

 

駆けつけた警官も銃殺したチャラ源と静は合流し、撮影場所を探すふりをしながらどうにかして騒ぎを収めようとするものの、完全に歯止めが利かなくなっていて、遂には警官隊に周囲を囲まれて行き場を無くし、それでも警官隊の突入を止め、人質状態だった娘は解放することに成功したものの、チャラ源に頭を撃ち抜かれて絶命してしまうわけで、……そう、つまりこの映画において、福山雅治って死ぬんですね。

 

 

この映画、そんな映画だとは露ほども知りませんでしたので、唖然としましたね。

 

 

で、この最終イベントの前、静と野火って男女の関係から発展してしまい、結ばれてしまうのですよ。

 

 

まあ、そこで冒頭に静と定子の間で交わされた「野火は処女か非処女か?」という賭けの伏線が回収されるというオモシロはありましたけど、それでも「え、結局、結ばれちゃうの?」っていう驚きが強かったですね。

 

 

ただ、この結ばれるシーンで交わされる会話、静がもともと目指していたカメラマンの方向性がロバート・キャパのあのスペイン兵の写真を引き合いにして語られるんですが、そのシーンを描くためには、まあ結ばれなくちゃダメだったのかな?とは思います。

 

 

結ばれずに語るには、芸能人の出待ちをしているベンツの中でしか出来ないんですが、そこだとムードが出しにくいし、ラストシーンの「野火が静のライカ(=遺志)を受け継ぐ」っていうのに結実しないんじゃないかな?と。

 

 

そう考えると、まあ仕方ないというか、飲み込むしかないというか。

 

 

ちなみに、チャラ源が発狂して静を撃ち抜いてしまうのは、その向こう側で野火が静の教えに従って「決定的瞬間を狙っていたから」というのがあるんですがね。

 

 

静と野火の師弟愛、男女愛を見せつつも、静の思い描いていた理想を束の間見せてくれてもいた、なかなか衝撃的なシーンでした。

 

 

静が撃たれた瞬間の姿勢は、キャパのスペイン兵に被りましたもんね。

 

 

……という感じで私はなかなか楽しめたんですが、違和感が多少残ったのも事実です。

 

 

静と野火が男女の関係になってしまうのも違和感ありましたし、最終イベントで、チャラ源から娘を解放する場面、あれ完全に逃げられたと思うんですよ。

 

 

あそこまで狂っちゃったチャラ源はもう助けようがないし、あれ以上関わったら撃たれちゃうかもしれないっていう予感はひしひしとあったと思うんです。

 

 

でもなんで静は逃げなかったんだろう?って。

 

 

……まあ、それは「逃げられない間柄だった」というのがあると思うんです。

 

 

それが何かは描かれてませんけど、でもきっとそういう背景があったんだろう、と。

 

 

それまでの場面にも、そういった「腐れ縁」的なニュアンスは予感されてましたしね。

 

 

でもそれ以上に違和感があったのは、なぜ警官隊は周囲を囲むだけ囲んで、突入しなかったのか?と。

 

 

あんなに真昼間の街中で拳銃をパンパン弾いちゃってるシャブ中はもう、射殺以外ないだろう、と。

 

 

射殺できないにしても、せめて足なり手なりを狙撃するとか。

 

 

でも、そんなことを全く匂わせずに、ただただチャラ源と静を見守ってるんですよね。

 

 

まあ、静が「だいじょうぶだからって!」と制止してますけど、でも、ねぇ。……

 

 

……と思ったんですが、でもこれ、映画なんですよ。

 

 

非現実的な出来事が起きて、それに対して主人公がどういう選択をするのか?というを仮想的に味わうのが映画なんです。

 

 

あるいは、現実的な出来事に対して主人公が非現実的な選択をすることで何が起きるのか?を仮想的に味わうのが映画なんです。

 

 

つまり、映画にリアリティーを求めすぎちゃうのはいけないんじゃないのか?と私は思うのですよ。

 

 

TBSラジオ『タマフル』の映画コーナー「ムービーウォッチメン」での『SCOOP!』のリスナー評を聞きましたけど、その中に「リアリティが無さ過ぎて萎えた」的なことを言う人もいたんですよね。

 

 

まあ、確かに一定以上のリアリティがないとダメな映画もあると思いますけど、でもそれを「過剰に求めちゃう」のってどうなのかな?と最近私は思っておるのです。

 

 

ジェームズ・ボンドの良さって、後部車両からジャンプしてギリギリで前部車両に飛び移れたけど、でも焦る素振りなんか微塵も見せずにカフスボタンを直すところにシビれるのであって、そこで「カフス直してる場合じゃねーよ!」とツッコむのは完全に野暮ですよね。

 

 

同じように、この映画でも「静はチャラ源から逃げられただろう!」とか「警官隊が即突入しないのはあり得ない」とかっていうリアリティ指向は過剰だと思うのです。

 

 

よくない。

 

 

でも、じゃあなんでそんな状態になってしまうのか?と考えた所、至った結論が「昭和の映画のリメイクだから」ということですね。

 

 

もともとは『盗写1/250秒』という昭和のテレビ映画をリメイクしたものでして、つまりは「昭和のドラマ」なんですよね。

 

 

私は原題ドラマは未見ですが、それでも見てて『探偵物語』的な匂いはすごい立ち込めてましたもんね。

 

 

でもって、昭和のドラマって、そういう「ノンリアル」な演出って多かったじゃないですか?

 

 

『太陽にほえろ』とか『あぶない刑事』とか。

 

 

つまり、そういうのを見て育ってるか育ってないか、憶えてるか憶えてないか、許容出来たか出来なかったか、というところあたりに、この映画に対する感想も変わってくるんじゃないのかなぁと思います。

 

 

長々と書いてしまいましたけど、私が書きたかったのは、そういうことです。

 

 

映画とは、「起こり得ない出来事の顛末」や「選択できない選択をした結果」を体験するためにあるものだ、と。

 

 

小説だって、他の芸術だって、同様ですよね。

 

 

私はそう思います。

 

 

という感じで、私はこの映画、なかなか存分に楽しめました。

 

 

さて、次回は、『君の名は。』か『何者』か、ですかね。

 

 

『ウシジマくん』とか『PK』とかも控えてるから、『君の名は。』はもう、ラストチャンスかなぁ。……

 

 

ではでは。