浅野嘉久公式ブログ -3ページ目

何と、私のASA社からの正式な“引退”とASA社創立5周年を同時に“祝う”式典に、広田の姿は無かった…。

ASA社は造反劇の直後から、瞬く間に銀行や取引先の信用を失い、傾きかけるが、広田は、そんなASA社からサッサと逃げ出したのである…。 そして、彼は自分の懐を痛める事無く、自分自身で広言したハズの増資の払い込みも一切せず、「潰れるものは潰れるんだよ‼」という捨て台詞を残して去った……。

私は造反劇直後に浅倉先生と相談し、目黒に在る本多憲児先生所有のマンションへ、野口医学研究所のオフイスを移した。 次の日から、精力的に定款作りや役員組織作りに勤しんだのである。

造反後から式典に至るまでのある日、私は澤田にこう問うた。

私「お前はどうする?? 一応、野口医学研究所でも面倒を見られるが???

彼の応えは、

「私もASA社を創った人間の一人ですから、ASA社に残ります」

私「………」、何をか言わんや…。

全く以って、世の中はかくも左様に義理も人情もへったくれも無い…。 

心変わりは世の常、とは良く言ったものだ…、その時、私はつくづくそう思った……。

その別れがあってから程無くして、澤田が「〇〇〇80」という会社の某常務と連み、融通手形を交換し合っているという噂を聴いた。 而してASA社は式典から一年後、即ち造反劇から、丁度、二年後に崩壊した。

X-Day(ある日)、澤田から電話があった。 彼は涙声で、激しくしゃくり上げながら…、

澤田「到頭、不渡りを出してしまいました」

私(ムカッとして)「それがどうした⁇」

正直な話、「それ見た事か‼」というセリフが、私の胸に込み上げて来たのを覚えている…。

結局、青木、澤田は会社の経営を放棄し、債権者会議すら開かず、捨て去ったのである。 

釈迦に説法だけれど、債権者会議は人に例えれば葬式に当たる。 良きにつけ、悪しきにつけ、真面な誠意と責任感を持ち合わせている経営者なら、絶対に行わなければならない最期の締め括りである。 私は会社と友人と信用を、同時に失った…。

これには後日談もある。

私は創業者責任として、一切、連帯保証を取り下げていなかった。 当然、倒産となれば債鬼が襲って来る…。 こんな哀しいシーンを想像して頂きたい。

ASA社が倒産して間も無く、裁判所から差し押さえ担当者が私のマンションを訪れた。 

お袋はおろおろと取り乱し…、間の悪い事に、娘の静香(長女)も身体の具合が悪いとかで休みを取り、自室に居た時だったのである。

昔は「赤紙」だったらしい…。 だが、現在(いま)は目立たない「白紙(封印)」になっている。 その物(封印)が、家中の家具にベタベタと貼られた…。

さて、債権者は、一体、何社だっただろうか…。 兎に角、全ての債権者へ金を払い終わったのだが、澤田や青木たちが、これにどう対処し、どの様な結末を迎えたか…、少しは知っているけれど、ここでそれを明かすのは、暫し控えて置きたい。

とまれ、野口医学研究所の誕生と“温かい師(この時点では、未だ、浅倉先生の事をそう信じていた…)”を得ることが出来た。

私の漕ぐ船を浅會先生が舵を取る。 野口医学研究所は、ASA社倒産とは反対に、順調な船出を始めた。 毎日が戦争の様な忙しさではあるが、今笑い、流す涙は温かい…。 

皆さん、「浅倉裁判顛末記」を読んでくれた皆さん、こんな浅倉先生との蜜月期間も、澤田との絡みもあったのですよ…。 

人の世は移ろいますよね?⁉ だから他人を赦さなくてはならないのでしょうねェ?

澤田⁇ ええ、彼は今病んでいますが、野口医学研究所に居ます……。 

何れ気が向いたら、何故、澤田が此処(野口医学研究所)に居るか、語って置きたいとは思うけれど、これも取り敢えず控え、ここで終わりに致しましょう…。

 

本当に、ありがとうございました…。