野口英世記念研究センター建設に心血を注ぐ浅倉稔生教授 ー雑学を仕込まれる、その2ー | 浅野嘉久公式ブログ

東大・医学部・栄養学教室で早速やらされた仕事は、ポルフィリン生合成ベースの赤血球を洗滌するのに使用する生理(的)食塩水を作る事でした。

何の事は無い、0.9%の食塩水じゃないか、と20の大きな丸底フラスコにたっぷりと作り終った処へ師が来られ、「君ね、間違い無いとは思うけど、生食のテストはこうするんだよ」と、手の平にフラスコからダブッと液体を移し、ズズッとすすられ、途端、べーッとはき出した。 「君々、これは10倍濃く作っていると思うよ、生食は塩辛くもなく、薄くもない、丁~度味良い味加減なんだ。 だからドラキユラも喜んで処女の生き血を吸うんだよ!」と云われました。 私は慌ててノートを調べました…。 はてさて、一桁計算違いをしていたのです…、つまり、10倍も濃い生食を作っていたのでした。

この事件以来、私は師を田舎者などと言えなくなってしまいました。

次の日、上野入谷に在るブロイラー工場へ行ってニワトリの生き血を貰ってくる仕事をやらされました。首を締められたニヮトリがドでかい旧式洗濯機の様な機械に入れられ、回され、出て来ると丸裸になっている…。 次から次へと、羽根を毟(むし)られたニワトリが出て来るのを見て驚き、思わず腰が引けたのを今でも思い出します。

さて血液を貰って教室に帰ってからが大変…、ニワトリの有核血球を処理し、34時間おきにインキュベションを止めて、ポルフィリンを採取する作業を連日連夜徹夜でやらされました。

10もある分液ロートを10個も並べ、夜を徹して振り廻わさせられたのです。 師は自ら、どこにこんなバイタリティが隠されているのかと思う程、動かれたのだが…、実は、私に大きな分液ロートを23度振り廻して見せただけで、後は全~部私の肉体労働…。その後も、師は忽然と現われ、チェックし、何処へともなく去って行かれる。 後で判った事ですが、当時師は、CMで有名なある海苔製造会社(山本海苔)の学生重役だとか、都内でも有名な病院の副院長もし、それだけではもの足りず、その才能を惜気もなく発揮、懸賞SF小説に入選し佳作賞を獲ったりするなど、天才の面目躍如たる大活躍をしていたのです。 時々ポルフィリン製造工場みたいな私を可愛そうだと思召(おぼしめ)されてか、当直医のアルバイトで稼いだお金なのか、学生の私には手の届かない様なご馳走を奢って貰ったり、様々な知識を植え付けて頂きました。 唯、師からは学問を教わった記憶が余り無く、「二週間で、しかも最少コス卜で運転免許を取得する方法」とか、「草津節を英語やドイツ語で唄うには」、「アイラブユーを何ヶ国語で表現出来るか」等々、随分と雑学を仕込まれたものでした。 

何とか卒研を終了し、大学を卒業してからしばらく研究生生活を送り、その後、師とは音信不通が続きました。  しかし、栄養学教室では毎年同窓会が催され(女子栄養大学の香川良子先生と親しくなったのも、この栄養学教室のお蔭でした)、その度に師の話は誰からともなく、絶えず聞かされていた為、師が大学院を卒業し、学位を得てから、頭脳流出を惜しまれ乍ら渡米された事も承知しておりました。

しかし、当時は栄養学教室の誰一人として、師が米国に永住する事になるなど、考えていなかったと思います。

実は昭和四十年になって、師の留学の順番が回って来た頃、師の先輩助手で立派な病院の一人息子、背も高くハンサムで神様とは不公平なモノよと教室員全員が羨望している、しかも、東大、東大大学院を順調に進み、将来を嘱望されていたI先生が、米国留学を終え、明日には帰国という時に、突然、割腹自殺をするという大事件が起きたのです。 

吉川先生は大変、責任を感じられてか、次に米国研修を控えていた浅倉助手に、「君は結婚しない限り米国留学はまかりならん!!」と宣託されたのでした。 困ったのは婚約者どころか、恋人一人も居ない師でありますが、そこは天才の天才たる所以(ゆえん)、いつの間にか私の後輩と電撃婚約⇒結婚と、見事態勢を整え、渡米されたのでした。 その澄子夫人はとても素晴らしい女性で、才色兼備の典型ともいうべき人でした。 先ず美しい…、師とは正反対に目が大きい…、更にそのおっとりとした性格も加わって、彼女と会う人たちは皆、男女を問わず好感を抱いた様です。  続く、