「大切にしていきたいこと、姿勢」 | YOSHIHIRO KAWASAKI ~道草食って、夢から醒めた~

YOSHIHIRO KAWASAKI ~道草食って、夢から醒めた~

川崎芳勲(カワサキヨシヒロ)
1990年生まれ

青年海外協力隊として
2014.7.7~2016.7.6の2年間、ウガンダにいました。
過去の旅のことやウガンダでの日々を綴っています。




夜は思いのほか早く過ぎ去っていく。

夜通しで作業などをしているときは特に。



意識があるなかでの比較という前提があるならば、
太陽が顔を出している時間帯の6時間と、
夜中0時をまわって、あたりが少しずつ明るくなる6時までの6時間を比較すると、
自分なかの感覚では、後者の方があっという間に過ぎ去っていく気がする。



生み出される音の総量が減り、視覚的にも暗くなるぶん、
時間の経過を体感する機会がなくなるがゆえの「あっという間」なのだろうと思う。



「静」「動」が交互にやってくるからこそ、成り立つ世界なのでしょう。

すべては。きっと。





刺激があり、一方でその緩和させるための何かがあって初めて、
刺激も刺激的なものに変わる。

日常と非日常が絶対に交わることのない要素を持ち合わせているにも関わらず、
同じ直線上に存在しているのと全く同じ。



人間の心もまた、同じだと思う。


一人の人間の中にも静と動は同居し、もう一つの世界はそのなかには広がっている。













書きたいときに書くという贅沢は、

・物事を深く考え、自分の言葉として吐き出す時間的余裕
・物事を深く考え、自分の言葉として吐き出す精神的余裕
・何よりも言葉にしたいと思う思考の蓄積

があって、初めて成り立つ。



久しぶり(言うてたった2年やけど)に帰ってきた日本で思ったのは、
あ、思ったより時間がない。ということ。




ん?

時間がない…?




他にやることが多すぎて、書く時間が微塵もなかったわけでは、もちろんない。

ただ単に、筆が進まなかっただけ。
何を小説家気取りの発言を、と思うでしょうが。笑





心を落ち着けて読書をしながら音楽を聞き、
日常に耳を澄ませ、目の前を通過していった事象に目を凝らし、
自分の言葉に置き換え、記録に残していく作業。




この瞬間に何よりも「リラックス」できていると感じるのは、
積み重ね、定着していった習慣のなかで、
心地の良い絶妙な力量のインプットとアウトプットがこれだ、とわかっているから。

それを定期的にできていれば、基本ストレスはたまらない。




こういう文章を書いている時点でお気づきの人もいるでしょうが、
自分のなかで心地良いとしているインプットとアウトプットのバランスが崩れていた。

帰国してからずっと。

そう、だからストレスを感じていた。






一文字でもタイプしてしまえば、断片的に散らばっていった感覚が結集し、
気づいたら数千字打っていることもよくある。

一文字でも書き始めれば、自分のなかの何かが始まる。

そうすれば、フッと体が軽くなっていくのがわかる。



そこまでわかっていたのに、しなかったのはなぜでしょうね。

自分でもわかりません。



謎のイライラの根源は、インプットとアウトプットのバランスが崩れていた。

原因がわかっただけでもスッキリだけど、せっかくだから書き始めた。
それが今回のブログの始まり。













インプットとアウトプット。



それが「受信」「発信」であることは変わらない。
しかし受信:発信≠聞く:話すである。



受信は、何かを自分の身体のなかに取り込むことに他ならない。

身体のなかというのは、もちろん思考材料・思考回路も含む。
自己と他者を分かつ境界線があると仮定するのであれば、
その境界線を越えて、自陣に入って来る感覚。



一方で、発信。
SNSなどで誰かに自分の想いを伝えるという解釈が一般的になりつつあるけど、
あれはボクの中では発信にはなっていない。

既存の事実を言葉に変えて、誰が見ているかわからないような場所で、
不特定多数の人につぶやく、もしくは発信する。
即席の発信としては優秀なツールに思えなくもないけど、
あまり深い思考を介した言葉遊びができない印象をいまだに持っている。





発信するなら、「無からの創造」の方が楽しい。


それに限る。
正解か不正解なんて差別はなく、ただひたすら言葉を繋ぎ合わせ生産していく。


その行為そのものが最強のオリジナリティの根源になり得ると思っているからこそ、





私のなかの確固たる「発信」とは、「自分自身との対話」に他ならない。




直球ストレート、ごまかしなしの感性の解放こそ、自由。









受信が境界線を越えて入ってくるものに対し、
発信は境界線の向こうに意思を飛ばすこと?




いいえ。


脳が向けるべき矛先は、内側。



紡がれた言葉は境界線を越えることなく、三次元的方向に深化していく。
なぜか誰一人に触れることなくとも、成就する。

その段階までいけば、いつ誰に何を聞かれたとしても、
ツタをたどるようにして、いつでも引き出し、解放することができるように思う。













協力隊としての任期を満了し、7月6日に帰国しました。

新しい舞台が決まった。


それと並行して、向こう1年、3年、5年以内に到達していたい目標も見えてきた。




数値化できる目標の方が、確実に達成したという実感を得ることができる分、
「達成感」という言葉にふさわしい目標に思えてくるけど、
数値化できない、もしくは言葉にできないなんとな~くの人生目標だったり、
自分にしか知ることのない手ごたえなき達成があっても悪くはない。



結局のところ、

逃げずに自分自身と向き合った結果が、その人の人生の色になる。



だからまわりになんと言われようが、マイペースに自分自身や取り巻く世界と向き合い、
納得のいく解釈を与え、意義を得ることができれば、もうそれで十分だと、思えなくもない。













美しいものを美しいと感じたい。


その欲求には最低でも二つの前提条件がいる。
そう感じることができる‘余裕’‘環境’が必要だ。




世間一般でいう‘美しい’に同調するにはある程度恵まれた環境下にいなければならない。



忙殺されていては、夕陽に心震わせることもなく帰宅するだろうし、
網膜に残像として焼き付くこともない。

感動することすらできないわけです。




二度とやってこない何かが本来の希少性を全面に突き出すには、
恵まれた環境にいなければならない。



少なくとも美しいものに全身を投じ、心酔することは贅沢なことであり、
非日常的なものであるという認識が日本では一般的な気がする。






何をするにしても代償を払うべきなのか?



犠牲の上に成り立つものだけが、美であり安らぎであり感動なのか?



相対的な物差しなら、捨ててしまった方がいいでしょう。






美は、自分の価値観ではかることなど不可能で、いつ何時も絶対性を帯びている。

ただ、それを美しいと思えるがあるか、余裕があるかで決まる。





大多数の人に受け入れられているものであろうがなかろが、
私の五感が、感情がそれを美しいものとして捉え、記憶したのであれば、
それが美しいものであると疑う余地はもうないとしたい。




そのものを美しいと感じることも人との出会いと同じくして一期一会であり、
二度とやっては来ない条件下で成り立った奇跡の方程式であるわけです。





ゆえに興味惹かれ、突き詰めてきたことに対しては、
自分の中で輝きを放ってきたものだと胸を張っていい。


美しいものへの美学。

自分が何に魅了され、翻弄され、生きてきたかを体現してこそ、美しい人生。







振り返れば…



知らないことには興味が湧く。


興味が湧くと知りたいという気持ちも増す。


知るための行動を起こし、その片鱗に触れる。


何らかの引力を感じ魅了され、そこに自分だけの空間や悦びを見出す。


そんな人生だった。


これからもそうありたいと、心から思う。






美しいと感じる心を保つこと。

そして、それを深めていく過程で、多くの人を巻き込んでいくということ。


持続することができれば、
50年後、60年後の自分も、今と同じような幸せに感じているに違いないと思うのです。