谷保天満宮(ToT) | よしひろの日記

谷保天満宮(ToT)

今日は朝から晴れの1日となった。






昨日は雨だったが桜が咲いていた。東京もそろそろ桜の開花宣言が出そうだな☺️






今日から谷保天満宮について書く事に…




谷保天満宮の創建は903年。






主祭神は学問の神様と言われている菅原道真。この谷保天満宮は菅原道真の三男の道武が父を祀る廟を建てたことから始まっている。





この菅原道真だが、学問の神様として以外に怨霊として都に祟りをもたらした存在としても有名😱






菅原道真は学者としても政治家としても、卓越した力量を発揮して26歳の若さで最難関の試験「方略試(ほうりゃくし)」に合格。33歳にして学者の最高位である「文章博士(もんじょうはかせ)」に任じられた。






宇多天皇の絶大な信頼を得て、学者としては異例の右大臣の栄位を極めたがそれを妬んだ藤原時平の策謀によっていわれのない罪で901年に大宰府へと左遷されて903年に死去。





道真が亡くなった翌年から様々な出来事が起きた。延喜4年(904年)にかけて、各地で旱魃(かんばつ)が起き、疫病も流行。延喜5年には彗星が出現して人々を恐れさせた。




延喜6年(906年)には道真の左遷に与した藤原定国が41歳で死去し、2年後の延喜8年(908年)には、かつては道真の弟子でありながら、道真を左遷させるのに手助けしたとされる藤原菅根が謎の熱病で悶死。巷では道真の祟りではないかという風評が流れるようになった。






そして策謀によって菅原道真を太宰府へ左遷させた首謀者の藤原時平も延喜9年(909年)には熱病にかかり加持祈祷の甲斐なく39歳の若さで悶死💧




延喜13年には道真のあとをうけて右大臣になっていた源光(みなもとのひかる)が急な雷雨で馬ごと泥土に埋まり死亡😱





延喜19年(919年)には祟りを恐れる醍醐天皇(※)の勅をうけて、道真の墓所の上に「太宰府天満宮」が竣工した。


※897年に宇多天皇は親王(醍醐天皇)に譲位した。






それでも怒りは鎮まる事はなく、延長8年(930年)の6月、その日は宮中の清涼殿で公卿たちが集まり、雨乞いの合議していたが急に黒雲がわき起こり、雷鳴が鳴り響くなか、鋭い閃光が清涼殿を貫いた




この落雷による数名の死者の中に藤原清貫の無残に焼け焦げた姿があった。清貫は醍醐天皇の側近で、かつて道真の左遷の宣命を読み上げ、配流後は道真を訪ね調書を取った人物であることから、その死は道真の祟りであると噂が広まった。


※清涼殿落雷事件





側近である清貫の無残な死に様を目の当りにした醍醐天皇はその衝撃と恐怖で病臥、その年の9月に崩御(享年46歳)。




菅原道真の死去から27年の間に起きた出来事を考えると菅原道真の祟りと当時の人々が言うのも理解出来るな😥





菅原道真は平将門、崇徳天皇と並ぶ日本三大怨霊の1人。書いてて恐ろしさがよく分かりました💧




そんな一面も持つ菅原道真を主祭神とする谷保天満宮。今回は菅原道真の話だけになってしまったが続きは明日のブログに書くとしよう😅





ここからは猫写真を🐱






水を飲む殿様猫。




後ろには前に毛繕いをしていたキジトラが…





その姿に気づくと振り返って伸びを…いいタイミングで撮れたな☺️




この後、キジトラのほうへ歩いていく殿様猫。続きは明日の猫写真に載せるとしよう。