「歪」のススメ | 近藤嘉宏オフィシャルブログ「Brillanteな瞬間」Powered by Ameba

「歪」のススメ

一昔前には
「心を直接手掴みされる」ような
人間味をダイレクトに感じられる演奏が
今よりも多く存在していたような気がする。
でもそれは激情的な演奏ということではない。

今と昔では演奏スタイルも違う。
今ではあまり見かけない、
見得を切るような演奏やムラの多い演奏も
結構あったりする。
それに録音のシステムだって違う。
お世辞にも音が良いとはいえないものも多い。
にもかかわらず強く心惹かれてしまう。
でも一口に人間味溢れるといっても抽象的。
物理的に説明がつかないのは何とも気持ちが悪い。

そんな事を考えながら録音を聴いていて、
一つ思い当たったことがある。
「心を手掴みされる」演奏には、
神がかった領域での
絶妙な「歪さ」のあるものが多いのだ。
歪といえばマイナスのイメージだけど、
そうではない。
例えるなら、
定規等を使って寸分の狂いもない
多角形や真円を描くのではなく、
本能的にバランスを取りながら、
手書きで図形を描くような、
そんな感じ。
極めてクオリティの高い「手書きの図形」が
人間味を感じさせて、
心に訴えてくるのだと思う。

「歪さ」は決して「至らない」ことではない。
寧ろ本能と感覚が優れていないとできない
芸術的な離れ業と言える。
だから弾けていない、
音楽の詰めが甘いといった力量不足とは
全く次元の違う話。
「定規」という整形フィルターを使わずに音楽を奏でた時の
メッセージの生々しさ、強烈さ、
そして奥深い感動。
これこそが音楽における「アナログ」の
究極の素晴らしさなのではないかな。

しかし、今はデジタルの時代。
全てが効率化、合理化されていく現代に生きていて、
体の中に自動装備されてしまっているかもしれない
「定規」を取り払うのは、
逆にとても大変なことだと思う。
僕自身かなり意識するようにはしているけれど、
果たしてどうなのだろうか…
確かなのは、
客観的には良いと感じることができても、
同様のものを自分の力で生み出すには、
自分自身に相当根ざしているものが
なくてはならないということ。

それにしても、
進化は退化と常に表裏一体なのだと
つくづく感じてしまう。