《稀代の策謀家・岩倉具視②》


慶応三年(1868年)十月、徳川幕府は政権担当を放棄し、朝廷に返還され、ここに大政奉還は成されました。
が、左幕派の諸藩(会津、桑名など)や幕臣(新撰組も入ってます!)、直参旗本などはこの決定に納得がいかないばかりか「薩長の陰謀である!」と憤慨し、これを殲滅すべく、京都郊外に武装して集結します。
そしてついに、旧幕府軍と新政府軍との間で戦塵の火蓋が切って落とされました。

戦となれば軍隊には旗が必要です。特に天皇の軍隊である官軍には“錦の御旗”が揚がらなければなりません。
錦の御旗―歴史書には600年前の南北朝時代に使われたとありますが、現実にはどこにも存在しませんでした。
岩倉卿は、まるで魔法のような手を使います。
「いくら書物を調べても、旗の形や景色まではわかりますまい。みなが納得する形を工夫すればよろしかろう。」
岩倉は“旗”をデザインし、大久保と連絡して西陣で女性の帯布を買ってこさせ、のちに歴史を旋回させることになるこの小道具を、作ってしまったのです。

事実、伏見の戦線で旧幕府軍に押されていた新政府軍にこの“岩倉が作った錦旗”が揚がると、形成は一気に逆転します。
旗を実際に目にした旧幕府軍は、自分たちが帝に弓を引く“賊軍”であることを実感したのです。
そして後方の大阪城で戦況を見つめていた元将軍徳川慶喜も、これを機に海路江戸に戻っていきました。


ペリー来航から時代は風雲急を告げ、尊皇攘夷に沸き立ちますが、ある時期を過ぎると、世の知識人たちの間では“このままでは幕府はおろか日本が保たない”“国を開き、諸外国と対等に交わるほか道はない”と、開国路線に変わっていきます。
しかし時の天皇孝明帝は大の外国嫌いであり、極端な開国反対論者でした。このことが、岩倉をはじめ日本を前に進めようとする人たちにとって大きな悩みの種となっていました。
ところが慶応二年(1867年)、孝明帝が崩御したのです。幼帝が帝位につき、岩倉の昔からの馴染みであった中山忠能が後見人となりました。
ここから時代の流れは一気に加速します。

孝明帝の死因は、“病死”となっています。




以上!今回の攻略法はこれにてメデタク終了~です(^O^)
長々とお付き合いいただきありがとーございました音符にひひ
またいつかお会いしましょう!!


『新・幕末純情伝』
お楽しみに~(^O^)