お久しぶりですにひひ
舞台始まっちゃってるし、「今さら?」ってお思いでしょう。でもね、どーしてもやりたいんです!!
今回で完結ですグッド!
ではいってみましょう音符


《稀代の策謀家・岩倉具視》


岩倉具視は、公卿の身でありながら幕末薩摩藩と接近して幕府を倒すために暗躍し、維新後は太政官政府の右大臣、外務卿などの顕職を歴任しました。
また欧米を積極的に視察し、産業振興、鉄道の敷設、版籍奉還、廃藩置県など、近代日本建築の礎となる数々の功績を残しています。

その岩倉が、晩年幕末の動乱を振り返り、こう語っています。
「あの時期、私と大久保(一蔵。後の利通・薩摩)とで共謀し、遂げたことは、とても人に言えるものではない。」
ついに岩倉卿はその真実を誰にも明かさず、墓場まで持っていきました。

幕末の革命前夜、岩倉は巨大な陰謀をめぐらします。しかも本人は京都郊外、洛北の岩倉村を離れず、そこから京の風雲を操っているのです。

慶応二年(1867年)、孝明帝が崩御すると、皇子である睦仁帝(後の明治帝)が即位しました。が、なにぶん幼少であられるため、外祖父である前大納言中山忠能が後見人として幼帝の介添えをし、実務をとることになります。
岩倉はこの中山忠能に巧みに接近し、籠絡し、恐れ多くも幼帝を意のままに利用するのです。

薩長同盟は、芸州藩、土佐藩を巻き込んで徳川幕府を武力討滅しようと目論んでいましたが、それには大義名分が必要です。
つまり、「幕府を倒すべし」という朝廷の号令(勅許・詔勅)が諸藩に降下されれば、連合軍は“官軍”として堂々と京に軍隊を進めることが出来、幕府軍が抵抗すれば、これを“賊軍”として攻撃することが正当化されます。

歴史の裏側で、岩倉の謀略の才が煌めきます。
岩倉は、なんとこの詔勅を自ら作成し、幼帝の後見人中山忠能を何日もかけて説くのです。
「忠能卿が、幼帝の御手をとり奉って玉璽(ぎょくじ。印鑑のようなもの)をさえ押せば、立派に詔勅になる」
そしてついにこれを実現させ、薩長両藩にこの密勅は降下されました。

が、この数時間前に、坂本竜馬が進めていた「大政奉還案」が受け入れられ、将軍徳川慶喜が政権を手放してしまった(幕府がなくなってしまった)ため、この詔勅は無効になります。
「危なかったぜよ」
竜馬は胸をなで下ろしました。

爪を噛む岩倉。そして…




to be continue…