《美剣士・沖田総司》


その少年のような明るさや容貌の美しさとは裏腹に、愛刀・菊一文字を振るい悪魔のような剣を遣う沖田総司は、剣豪ひしめく新撰組の中にあって、随一の遣い手と恐れられました。
また、肺病を患い若くして生涯を終える運命が愛され、多くの小説や映画でも印象的に描かれています。

陸奥白河藩士の長男として生まれた総司は、少年の頃に天然理心流の道場・試衛館の内弟子となりました。その後運命を共にすることになる近藤勇、土方歳三とは同門にあたります。
剣の才は早くから突出していたようで、若くして天然理心流の塾頭を務めています。また、北辰一刀流の免許皆伝を得ていたという記録もあります。

文久三年(1863年)、幕府の浪士組募集に一門で参加して上洛し、分裂後は近藤、土方に従い新撰組を結成しました。序列は一番隊隊長(十番隊まであり、一隊は約10~15名)。
この一番隊は常に最前線の重要な任務をこなし、元治元年(1864年)の「池田屋事件」においても近藤らと共に最初に池田屋に踏み込みました。この奮戦の最中に労咳により喀血したといわれています。

“肺病持ち”“凄腕の殺し屋”という顔を持つ総司は、一方でいつも冗談を言っては無邪気に笑っている陽気な人物であり、新撰組屯所界隈の子供達ともよく遊んであげていたそうです。

新撰組の生き残りである永倉新八は、後年総司を評し「稽古では井上、藤堂、山南などといった剣客たちが子供扱いされていたな。おそらく本気で立ち合ったら、師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていたよ。」と述懐しています。

その後労咳が悪化し、江戸の姉を頼って静養していた総司は、一月前に近藤が新政府によって斬首されたことを知らされぬまま、息を引き取りました。
「近藤さんどうしてるかな」
「手紙がこないかな」
と言っていたそうです。
享年は24、25、27才と諸説。




総司の愛刀と云われている「菊一文字則宗」ですが、この刀は大名でも手に入らなかったほどの、国宝級の大変な名刀だそうです。
普通に考えたら一介の下級武士が所持できるはずもなく、仮に持っていたとしても、普段使いの常備刀として斬り合いに使用するはずがない。よって、明治期以降の創作であろうといわれています。
が、この刀の存在により、総司の魅力が妖しく引き立てられているのも事実です。




『新・幕末純情伝』
お楽しみに(^O^)