人とは違う価値観を持つということ・複雑性PTSDと私 | 複雑性PTSD相談室*加納由絵

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大人の複雑性PTSD相談室です。
40代以上の「このまま人生を終わりたくない!」「あきらめたくない!」という方のサポートをしています。
複雑性PTSD サバイバー。
茶話会・講座・養成講座運営。
日々のことを書いています。

 

こんにちは。加納由絵です。

 

毎日暑いですね。

 

 

 

今日、お話しするのは

私の過去の経験についてです。

 

あまり詳細は話せないので

その点は、先にお詫びさせてください。

 

 

私は、ある出来事について

それが、一般的には

 

明らかな被害であると

判断される経験なのですが

 

私にとっては

被害という感覚はなく

 

むしろ、ザマアミロ!と

相手たちを見下す材料に

なっていたなと

 

そう思う出来事がありました。

 

それは、数年間、続き

言葉にすることは

かなりのボリュームで

はばかられることで

 

おそらく私は

この話の詳細については

 

担当医もしくは

担当の心理士にしか

話さないだろうと思います。

 

 

 

悲劇のヒロインぶって

「酷い目に遭いました!」と

ギャーギャー騒ぐことも

できる出来事ですが

 

私は、それはしない。

 

ずっと一人で抱えていて

辛くありませんか?と

軽薄なカウンセラーなら

聴いてくるかもしれません。

 

でも、私の答えはノーです。

 

ある出来事を

被害として受け取るか

 

被害者となった私の状態そのものが

ある意味で

相手たちに対する報復であると考えるか。

 

それは、人が勝手に

どうのこうのと

わかった顔で判断することではないと

そう思っているし

 

自分の価値観を捻じ曲げることは

私の自尊心が許さないというか。

 

 

相手たちへの私の感覚は

 

憐れみ

見下し

軽蔑

 

そんな感じでしょうか。

 

 

詳細を話していないので

意味不明な内容ですが

 

私は、自分を

「被害者」だとは思っていない。

 

泣き叫ぶ、弱者だとは

思っていない、ということです。

 

被害の中で

その出来事の中で

私自身、確実に手に入れたものもあり

 

それが、回復途上の私にとって

とても大切だったからこそ

 

私は、自分を犠牲にしてでも

それを手にいれる手段を

了承のうえで受け入れた。

 

そして、成果は残った

ということです。

 

 

 

心の問題が

綺麗事だけで片付くほど

単純なものではないことを

私は、自分の経験から知っています。

 

そして、それを

武勇伝のように

ドヤ顔で語る人に

 

吐き気がするほどの

嫌悪感を持つ私がいることも

知っています。

 

カウンセリングをしていると

男性ほど

自分の過去経験を

 

ポエムのように

美しいエピソードとして

 

語りたがる傾向があると

最近感じるようになりました。

 

「演出家?」

「詩人?」

「脚本家?」

 

「どんだけ、恥をかきたくないわけ?」

「取り繕うの、やめたら?」

 

そう感じることが

なんとなく増えました。

 

自分の人生を

綺麗なままにしておきたいなんて

それは、虫が良くないか?

 

もともと汚いから

洗うんじゃないの?

 

生きていくって

そういうもんでしょ?

 

そんなことを

考えることもあります。

 

私は人と違う価値観であったとしても

それが、生きづらさにはならない。

 

最初から理解を求めていないので

人と違う価値観を持つことに

おそれも違和感もなく

 

「へえ、そうなんだ」とだけ

なんとなく返事をしてくれる人。

 

だけど、私の価値観を

きちんと尊重してくれる人。

 

そんな人となら

一緒にいても

悪くないなと

 

そんなことを考えています。

 

なので、私の人生の中に

「友人」と呼べる人は

今現在も、皆無です。

 

みんな、私にとっては

「仲間」で

「知り合い」で

「学ばせてくれる人」です。

 

自分の価値観について

人に理解を求めないこと。

 

承認欲求だらけの

わかってちゃんおばけに

成り下がらないこと。

 

そして、人に

勝手な介入や侵入を

許さないこと。

 

私は私。文句ある?

 

そう思いながら生きていると

世の中

楽になりますよ。

 

では昇天