複雑性PTSDの中の「合意形成」と「安心」 | 複雑性PTSD相談室*加納由絵

複雑性PTSD相談室*加納由絵

大人の複雑性PTSD相談室です。
40代以上の「このまま人生を終わりたくない!」「あきらめたくない!」という方のサポートをしています。
複雑性PTSD サバイバー。
茶話会・講座・養成講座運営。
日々のことを書いています。

 

こんにちは。加納です。

 

ご購読ありがとうございます。

 

 

先日、ZOOMチャット相談会の

最終回を終了しました。

 

3年くらい続けていたと思います。

 

その後、ポッドキャストや

youtubeなどでも

情報発信を始めたので

 

以前のように

参加者も多くなく

半分以下の人数になり

 

いただくご相談やご質問も

徐々に定型文化してきたので

 

ZOOMチャット相談会は

ゆもりなオンラインという

動画配信サービスに

移行して相談を

続けることにしました。

 

 

さて。

今日のタイトル。

 

合意形成と安心について。

 

 

合意形成というのは

お互いに了解しあえた状態を

協力して作り上げていくこと

のことです。

 

一方的に

どちらかが決めるのではなく

強引に

どちらかが従わせるのではなく

 

双方がそれについて

受益者となれること。

 

難しい言い方をすると

そんな意味になります。

 

お互いに協力しあって

お互いの目的のために

行動しましょうということ。

 

 

子どもの頃の私たちには

「家庭内での合意形成」は

ほぼ皆無だったのではないでしょうか?

 

「〜〜しなさい!」

「それはダメです!」

「どうしてできないの!」

「お母さんをがっかりさせないでちょうだい!」

 

そんな言葉を

一度は聞いたことがあると思います。

 

しつけや教育とは別の

親の不安や欲求

劣等感を埋めるための道具として

子どもに向き合ってしまうと

 

それは

養育ではなく飼育になってしまう。

 

飼育といっても

最近のペットの飼育事情は

過剰なほどの過干渉な愛情が

溢れかえっているので

 

飼育という言葉は

ピンと来ないかも

しれないですね。

 

 

私は、先日参加した勉強会で

私自身が

合意形成のない環境への

違和感や居心地の悪さを感じ

 

その環境に

安心できないことを

あらためて気付きました。

 

私が大嫌いな

ケアの場面の情報に触れ

 

ありえないほどの

怒りと嫌悪感を感じたので。

 

 

具体的には

死別で辛い思いをしている人に

「一曲弾きますね」と

バイオリンを弾いて聴かせるというシーン。

 

私は、この

「一曲いかがですか?」が

大嫌いなのです。

 

なぜ、そう感じるか?というと

「お前の自己満足の道具にされたくない!」

という気持ちの方が

先に動いてしまうから。

 

いつも、相手に応じること

応えることに自分が動いてしまう

行動の習性が私にはあるので

 

「こんなに辛い時まで

相手の要求(自己満足して気持ちよくなりたい)に

応えなければならないのか。

 

と感じてしまうから。

 

私からリクエストをして

「何か聴かせてください」とお願いして

「いいですよ。何が聴きたいですか?」

であれば、まだいいのだと思うのですが

 

相手の厚意や善意の押し付けは

私にとっては

ウンザリするほど

辟易させられる

大嫌いな状況なのです。

 

 

なので、たぶん

私は

自己満足のため(自分がいい気持ちになりたいがため)に

支援者をしている偽善者が

大嫌いなのだと思います。

 

そういう人たちは

「自分には価値がないから人の役に立つことをして価値をあげたい」という

承認欲求や劣等感、コンプレックスが

強いような気がするのです。

 

支援者になりたいという人は

かなりの割合で

「自分のために支援者になろうとしている人」

だなと思うことがあります。

 

そういう人たちは

支援者になったときに感じることでしょう。

 

「支援というのは絶望の連続なのだ」

ということに。

 

 

トラウマという問題に向き合うと

トラウマという問題について

支援提供をしていると

 

トラウマという現実に

何度も何度も打ちのめされて

絶望感を味わいます。

 

どんなに努力しても

どんなに苦労しても

 

提供した支援が

響かないほど

 

症状の重い人と一緒に

トラウマと戦っていく日々。

 

それは、たぶん

がんの治療に携わる

医療関係者の方々の思いと

似たところがあるのかもしれません。

 

トラウマが手強すぎる。

 

がんが手強すぎる。

 

悔しい、口惜しい、残念すぎる。

 

でも、あきらめたくない。

 

それが、いつの間にか

支援提供者である

自分自身を苦しめる結果になる。

 

そんな最中に

自分が気持ち良くなりたいがために

支援の場にいる人を見ると

 

ふざけんな!と

別の怒りがわいてきて

 

そんな自分を制御するのに

また、新しい疲れが来る。

 

 

話が、あちこちに

飛んでしまいましたが

 

私にとって

トラウマを経由した私にとって

 

合意形成は

環境への安心のための

絶対条件であると

そう感じています。

 

勝手に決めるなよ!

私の考えは確認したのか?

何勝手なこと言ってんだよ!

 

私は、こう思うスイッチが

他の人たちよりも

簡単に入ってしまうのだと思います。

 

要求に応じるのはウンザリだ。

こっちの気持ちも少しは考えろ。

 

私は、ずっと

そんな経験の

繰り返しだったのでしょうね。

 

 

 

合意形成への安心。

 

 

勉強会に参加して

このことについて

言語化することができたので

 

とても良い収穫だったと思います。

 

ついでに、現状のある所属組織への

違和感や居心地の悪さも

その勉強会で共有することができ

 

共感をいただくこともできたので

安堵したこともあります。

 

その組織に属することは

私にとって

違和感以外の何者でもなかったのに

 

なぜ、出ることを選ばないで

今日まで来ていたのか?

 

その答えは

まだ出ていません。

 

出るのか出ないのか。

 

おそらく「出る」を

選択するのですが

 

その選択に納得したいので

もう少しじっくりと

考えようと思っています。

 

参加した勉強会で感じたことの

備忘録として書いてみました。

 

 

では昇天

 

 

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