[タラワ/ベティオ島]第3特別根拠地隊司令部地区①司令部建屋

キリバス最高裁・モルモン教会周辺

*後日、加筆します

 

タラワ(現在のキリバス共和国)は、日本海軍の重要拠点トラック諸島(ミクロネシア連邦/チューク)から南東約2,000kmの所にあるギルバード諸島にあるタラワ環礁を指す。ギルバート諸島にはタラワ環礁の他、マキン環礁、アベママ環礁の3つの環礁がある。明治25年(1895年)より英保護領になり大正5年(1916年)から植民地になっていた。

 

大東亜戦争開戦直後の昭和16年(1941年)12月10日、日本海軍第51警備隊の一部などにより、タラワ・マキンなど無血占領して、マーシャル諸島防衛のための哨戒拠点とした。北方と西方には日本海軍の基地を有するマーシャル諸島とカロリン諸島がある。

出典:防衛庁防衛研修所戦史室 編『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』〈戦史叢書62〉、付図

 

タラワ環礁の西端に位置するベティオ島には、当時、ギルバード諸島で唯一のタラワ航空基地=飛行場(昭和17年12月25日概成/日本海軍設営隊)を有しており、昭和18年2月頃に陸軍築城指導班が現地指導を行っている。なお、飛行場は幅60m×全長1,400mの滑走路、宿舎その他11棟、昭和18年4月11日迄に通信施設・防空壕・飛行機掩体もそれぞれ完成している。

出典:防衛庁防衛研修所戦史室 編『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』〈戦史叢書62〉、P.265

 

戦況だが・・・・

昭和17年(1942年)7月以降、海軍はミッドウェー海戦で空母4隻や艦載機(熟練パイロットを含む)の多大な損失&大敗、その後、ソロモン諸島ガダルカナルの戦いでは陸海軍ともに多大な人的被害を出して撤退。

昭和17年8月17日、ギルバート諸島マキン環礁では「マキン奇襲事件」がおきる。これは221名の米海兵隊が2隻の潜水艦に分乗してマキンに上陸し、マキン守備隊(日本海軍陸戦隊/第62警備隊1コ小隊+@)を壊滅させ、情報収集を行い撤退した。

出典:防衛庁防衛研修所戦史室 編『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』〈戦史叢書62〉、P.110

 

当時進行中のガ島攻略作戦の陽動作戦・戦力を誘引だったが、この事件で日本軍はマキン・タラワの重要さを認識。昭和17年10月より陸上防備を強化(ベティオ島を半ば要塞化)、昭和18年3月航空兵力進駐、同年7月末日砲台および野戦築城概成、

 

タラワ環礁ベティオ島の地上防備施設

・20cm砲(艦砲)×4門

・50口径3年式14cm砲(艦砲/要塞砲)×4門

・40口径3年式8cm高角砲×6門

・40口径89式12.7cm高角砲×4門

88式7cm野戦高射砲(陸軍砲)×8門

94式37mm砲(速射砲/陸軍砲)×6門

・93式13mm機銃(連装・単装)×15

95式軽戦車(陸軍)×14輛

山砲(歩兵砲/ 陸軍)×12門

・輸送

・駐屯総兵力約4,600名

・第755航空隊、など。

出典:防衛庁防衛研修所戦史室 編『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』〈戦史叢書62〉、P.458

昭和18年5月にはアッツ島の戦いで日本軍守備隊は全滅し、西部アリューシャンの放棄を決定。同年6月からのソロモン諸島ニュージョージア島の戦い(諸島含む)でも敗北。大本営による絶対国防圏構想を推進する要因となる一方、連合軍は太平洋中部から西進に専念できるようになった。

 

昭和18年(1943年)8月、連合国首脳によるケベック会談で、中部太平洋への侵攻作戦の具体案が決定した。

①ギルバート諸島の3環礁を攻略し、タラワ環礁を進攻の拠点とする。

②西方に転じて・・2正面作戦がを行う

海兵隊主体(ニミッツ指揮下):クェゼリンとエニウェトク(マーシャル諸島)、グアムとサイパン(マリアナ諸島)、ペリリュー(パラオ諸島)へと前進。

陸軍主体(マッカーサー指揮下):ビスマルク諸島とニューギニアをそれぞれ攻略して、両軍はフィリピンか台湾で合流。

当時、連合国の戦略は第一義にヨーロッパ戦線(打倒ドイツ)であり、アジア・太平洋戦線では、米軍戦力・物資とも制限を受けていた。米国民の関心もヨーロッパ戦線に向いており、太平洋戦線の関心は希薄だったという。戦費捻出の公債の売れ行きは芳しくないため、米国政府はメディアにて積極的に報道する方針を打ち出す。

 

そこで太平洋戦線の米軍は、日本軍の他の航空基地からの素早い援軍が無さそうで、且つ、防御設備が強固ではない、と思われるギルバート諸島に着目する。当初、マーシャル諸島を攻撃しようと考えたようだが、強固な防禦陣地&適当な上陸地点が少ない&日本海軍の主要基地(トラック諸島)に近いため、止めたようだ。

 

昭和18年9月から航空機と潜水艦による写真撮影が続けられ、水際に造られたトイレから日本軍将兵の数を割り出し、攻撃のGOサインが出たとのこと。

 

ギルバート諸島の攻略作戦は "Operation Galvanic" (ガルヴァニック作戦)と名付けられ、この作戦のために新たに中部太平洋艦隊(第5艦隊)が編成された。これまでの米軍史上最大の上陸作戦を実施することとなった。

中部太平洋艦隊:

正規空母6隻、軽空母5隻、護衛空母7隻、戦艦12隻、巡洋艦15隻、駆逐艦65隻、潜水艦10隻、上陸作戦用輸送船33隻、戦車揚陸艇 (LST) 29隻、タンカー22隻、陸軍航空隊爆撃機90機、海軍爆撃機・偵察機66機、海兵隊航空機200機

 

兵員35,000人、車両6,000輌、物資117,000トン

 

タラワを攻略する任務:米軍第2海兵師団。

ここに"宣伝のため"に米軍従軍記者ロバート・シャーロッド氏やノーマン・ハッチ氏(撮影)らが帯同した。だからこの戦いの大量の写真が残っている。昭和19年(1944年)3月、ドキュメンタリー映画 "With the Marines at Tarawa"が公開された。米国民は太平洋の戦場の現実をみた。

 

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タラワの戦いは昭和18年(1943年)11月21〜23日、掃討作戦完了は11月28日(タラワ環礁最北端NAA島)。詳細な戦闘経過などは沢山の書籍や記録があるため、ここでは割愛します。概要をさらり、と。

 

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タラワ環礁ベティオ島は東西約4km、南北は海岸から島の中央部まで最大600m程の小島。この島には海軍陸戦隊(第3海軍根拠地隊/佐世保第7特別陸戦隊) 2,600余名、第111設営隊軍属や第4建築部タラワ派遣設営班など約2,000余名(朝鮮半島出身者約1,200名)が防禦している。

 

米軍の「ガルヴァニック作戦」は米海兵隊初経験の真正面からの上陸作戦。上陸に先立ち、この約1ヶ月前から米軍機が周囲の日本海軍の航空基地を攻撃して、ギルバート諸島海域の制空権を掌握。マキンとタラワは孤立した。

 

上陸先の小島は日本海軍の砲台や野戦陣地で半ば要塞化していた。各陣地は死角がないよう配置され、坑道ないし塹壕で結ばれ、戦車壕も掘られた。礁湖 reef lagoon には水中鉄条網(有刺鉄線)を設置した(効果あった)。

出典:防衛庁防衛研修所戦史室 編『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』〈戦史叢書62〉、P.458

 

米軍は上陸用にLVT2型(上陸用軌道艇2型)を50輛、旧型の耐用限度ギリギリの同1型の運転台に装甲を付けて改良したものを75両以上用意した。だが1艇に20名ほどしか積めず、用意した総兵力35,000人には圧倒的に数が足りない。

 

第1波の突破部隊はLVT(上陸用装軌艇)を使えるが、強行上陸部隊とその支援部隊の大多数は輸送船のボートや上陸用舟艇、LCVP(揚陸用舟艇)などを使う。これら舟艇の吃水は水深1.2〜1.5mだが、ベティオ島北部海岸は沖合700mから海岸までは水深60〜90cmの礁湖reef lagoonが続くゆえ、米兵は平均38.1kgの装備で無防備な礁湖を歩き上陸しなくてはならない。5分ごとに数十人の海兵隊員は殺されるか負傷していた。これが初日の光景だった。

米軍の上陸計画

①夜明け前、第1波(突破隊)はLVTー1型に移乗。第2・第3波は直ちに上陸用舟艇で続く。別の輸送船から揚陸したLVTー2型が合流する。これらは環礁入口で合流する。

②第4波以下の攻撃隊は戦車や重火器類を舟艇に積み込む。

③夜明け直後、空母艦載機が30分間、機銃掃射と爆撃を行う。次に戦艦など火力支援艦が2時間の艦砲射撃を行う。

④第1波(突破隊)の上陸開始、空母艦載機が支援のために攻撃。

⑤駆逐艦2隻が上陸部隊を直接支援。

 

タラワ環礁への上陸部隊は、ガ島でも日本軍と戦闘経験のある第2海兵師団。

 

出典:ヘンリー・I・ショー(宇都宮直賢訳)「タラワ」P.45

ベティオ島などに計4波合計約750機の米空母艦載機が来襲、飛行場や日本軍の地上構造物(木造)は徹底的に破壊された。日本軍は艦砲射撃では殆ど反撃はせず、米軍の上陸前攻撃の切れ目に、上陸部隊や物資を移乗させている最中で身動きが取れない米輸送船を猛撃した(効果有り)。

 

だが、日本軍の陣地やコンクリート製建物(戦闘指揮所や通信室など)は盛土ならぬ、弾力のあるヤシの丸太と珊瑚礁の砂を組み合わせて防禦されたので、小山が幾十にもあるようにみある。砲爆撃の衝撃はこれらに吸収される仕組み。砲台や野戦陣地および航空機掩体に格納されている陸上攻撃機や戦車も殆ど損害なし。日本軍の各陣地は坑道で接続され陣地に死角なし。

 

とはいえ、艦砲射撃などによって各陣地を結んでいた電話通信網が各所で寸断(司令部との連絡不能)、発電機が破壊されて停電(各種電気設備が使用不能)などの深刻な被害があった。

 

陸軍築城本部は、米軍上陸地点を南西・南および東端側と予想したため、南西および東端側には大口径砲(20cm砲×4門)や高角砲陣地群は使えず。

 

昭和18年(1943年)11月20日夜明け前、上陸部隊(米第2海兵師団ら)はタラワ環礁の沖合10kmに到達。同日早朝、日本側の砲台が砲撃を開始、米軍の戦艦3隻からの砲撃(約3,000トン)、艦載機からの攻撃をした後、3つの担当区域(Red Beach 1ー3)に分かれて、第1波がLVTー1型42輛に分乗し、横一列っぽい布陣で上陸作戦を開始した。第2波はLVTー2型24輛、第3波はLVTー2型5輛・・・とつづく。これらは日本軍の猛撃の餌食になり、強い潮の流れで舟艇が流され、上陸作戦は当初の予定通りには出来なかったようだ。

北西端から北に向かって360m間隔で 

Red Beach 1(第2海兵連隊第3大隊)、

Red Beach 2(同第2大隊・第1大隊・攻撃指揮官)、

Red Beach 3(第8海兵連隊第2大隊・第3大隊)と3グループに分けられた。

 

米軍の戦闘指揮所はRed Beach 2付近に設置予定。

出典:ヘンリー・I・ショー(宇都宮直賢訳)「タラワ」P.61

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なんとか上陸に成功した米兵は、猛烈な援護射撃を受けながら火炎放射器と爆薬で日本軍陣地をひとつひとつ潰していった。

 

2日目(11月22日)朝になると、米軍の攻勢が活発になり大砲や戦車が続々と陸揚げされ、日本軍の抵抗が弱まる。日本軍残存兵のうちRed Beach 3 以東の約500名(東部陣地要員?)は島の東に追いつめられ、艦砲射撃でズタズタにされ、日本軍将兵は捕虜にならないよう自決していく。

 

ベティオ島の日本軍守備隊と他地域との連絡はこの日(22日)13時に途絶した。23日には最後まで頑強に抵抗した西部地区の佐世保第7特別陸戦隊第2中隊(兵力250)が、組織的な抵抗が出来なくなり全滅する。正午に第2海兵師団師団長(スミス少将)がベティオ島の確保を宣言した。

ベティオ島での戦闘は実質76時間。

米第2海兵師団16,692名、海軍将兵1,396名が投入され、そのうち934名が戦死、93名が戦傷死、2,2292名が負傷、88名が行方不明。死傷率は18.8%だった。

 

日本軍は設営隊も含めて全員が戦闘要員になり、捕虜になった146名のうち、日本人は1人の士官(重傷で自害できず)と16人の下士官兵のみ。残りは朝鮮半島出身の軍属ですすんで捕虜になっている(←イアン・トール『太平洋の試練(下)ガダルカナルからサイパン陥落まで』に記載)。大本営では米国の放送を傍受して「タラワ守備隊は昭和18年11月25日に玉砕」と断定した。

最後の守備隊

日本軍兵は西端のベティオ島以外に、約170余名がブオタ島 Buota (現在の空港があるボンリキ島 Bonriki の北西)に駐屯していた。ベティオ島で戦闘が起きる前後、島民の案内で島伝いに北に転進した。だが程なく、やはり島民の案内で追ってきた米軍兵と ブアリキ島 Buariki で白兵戦を繰り広げ、これも28日に鎮圧された。最北端のナァ島 Naaには日本軍兵はいなかった。

 

  第3特別根拠地隊司令部地区

Red Beach 3

第3特別根拠地隊司令部地区は、飛行場の東の誘導路から旋回誘導路の間に位置する。柴崎恵次少将以下、902~1,059名で構成されている。司令部地区を何人で守備していたかは不明。

 

第3特別根拠地隊司令部地区の主な火砲

山砲(歩兵砲/ 陸軍)×2門

94式37mm砲(速射砲/陸軍砲)×2門

・93式13mm単装機銃×2

・93式13mm連装機銃×1

95式軽戦車(陸軍)×9輛

 

 

私が確認した残置物は司令部(青丸)、発電所(橙丸)のみ。ここはスラム街にもみえる地域ではないため、比較的わかりやすい。

出典:防衛庁防衛研修所戦史室 編『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』〈戦史叢書62〉、P.458

出典:防衛庁防衛研修所戦史室 編『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』〈戦史叢書62〉

 

Red Beach3の上陸戦

ベティオ島北の桟橋東から飛行場東端までの720m正面。60mある木造桟橋(英領時代名:バーンズ・フリップ桟橋)は、日本軍の最大の防禦拠点と考えられた。まず(なんとか)桟橋に辿り着いた狙撃小隊の一部は、持参した火炎放射器で木造家屋を放火、桟橋に延焼して全焼した。

第1波(突撃隊)は米第2海兵師団第8連隊第2大隊

第2波は第8連隊第3大隊

第1波の第8連隊第2大隊は、味方の駆逐艦による上陸支援のための艦砲射撃によって、LTVー1型(上陸用装軌艇)群が接岸、第2波と第3波のLVT−2型も上陸。滑走路の誘導路に達する。第8連隊第2大隊は不思議と状態が良く、200m内陸の広い場所(誘導路と滑走路の接合部付近)に陣地を設けた。初期段階でシャーマン戦車数量の揚陸にも成功している。

 

米軍の上陸が無かった東部陣地から22〜23日、滑走路方面に援軍が行っている。

 

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第3特別根拠地隊司令部建屋

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昭和18年11月21日(初日)午後、司令部建屋は柴崎司令の意向で野戦病院に換わっている。

『玉砕の島―太平洋戦争激闘の秘録』によれば、戦いの初日(11月21日)13時過ぎ、第4艦隊附第3特別根拠地隊司令の柴崎恵次少将は、総コンクリート造りの大きな司令部を野戦病院に活用。戦いの最中、自ら参謀や司令部要員を連れて、南部砲台(外海側)の防空壕に移った。

 

『太平洋戦争の肉声(2)悲風の大決戦』によれば、司令部近くに、燃料切れで自走不能の95式軽戦車(大貫唯男海軍上等兵曹が搭乗)があり、司令部幕僚らの移動支援が命じられた。大貫上等兵曹は動かない戦車のなかから戦車砲を撃ちまくったそうだ。

 

同日14時頃、米軍の駆逐艦が放った1弾が、臨時司令部となった防空壕に着弾。直撃をうけた柴崎以下司令部幕僚全て戦死。唯一生き残った司令部伝令の音里一等水兵によれば、「防空壕には4つもの大きな弾痕が残されていただけで、柴崎以下司令部要員は吹き飛ばされて遺体すら残っていなかった」とのこと。

さて、司令部周囲には3か所の機銃座があり、野戦病院となった後も奮闘していた。

 

11月23日(3日目)、米第8海兵連隊第1大隊は、この機銃座に対して迫撃砲やM4中戦車の集中砲火、ついに陥落。司令部(改め野戦病院)地下と西隣の砂山(=盛土)真下の地下陣地(現在のモルモン教会)には、300余の日本兵が潜んでいた。米軍の工兵が地下出入口を爆破して塞ぎ、砂山山頂につくられた換気孔から火炎放射器を放ち、ブルドーザー数台がその砂山を押しつぶした。第3特別根拠地隊司令部改め野戦病院と地下陣地は陥落した。

 

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海岸の反対側、誘導路側の両端に爆弾よけを備えた出入口がある。外階段は海岸側と誘導路側にそれぞれ1ヶ所あり。西隣のモルモン教の施設が周囲の土地を買って2重の柵を付けたため、非常に見にくい。

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米軍撮影の第3特別根拠地隊司令部

出典:ヘンリー・I・ショー(宇都宮直賢訳)「タラワ」P.139

 

海岸方向に移動。

 

艦砲射撃で開いた穴も確認。

 

線香を焚き、合掌。

 

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95式軽戦車の砲塔

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ベティオ島の飛行場跡地に建つベティオ・ロッジ (betio Lodge/Hotel)

ここの中庭というか半屋外のカフェに「95式軽戦車の砲塔」が置かれていたが、2025年1月頃、東岬地区のベティオ・ロッジが経営する "KIRIBATI Sport & Fishing Bar" (The Horizon Bar?) に移転した。Barがある所には、守備隊の13mm単装機銃×2が置かれていた、と思われる。

 

ここに移転・展示された95式軽戦車は、飛行場付近に配備されていたもの、らしい。ベティオ・ロッジのオーナーが土地所有者から安値で買って、オブジェとして置いていた。

 

ち、ち、小さい(@_@)

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しばらく、タラワが続きます・・・・

 

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フィッシュ&チップス、魚はマグロ(・∀・)

 

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