[海軍兵学校?]海軍兵学校?地下壕

広島県江田島市江田島町宮ノ原

 

計画/竣工:不明

 

出典:国土地理院 1948/01/12(昭23) USA-M731-A-4、抜粋・加筆

 

海軍兵学校(第1技術学校)から大原分校(江田島青少年交流の家)へ向かう国道487号線沿いにある地下壕。運転中、左手の竹林にいくつかの坑道が確認できるので気になり行ってみた。

 

妖怪酒隠し様とカエル先生(祐実総軍三等兵さま)=既に探索済み、ご両人に呉滞在時にお会いした時、この地下壕の考察をいただきました。ありがとうございます!

結論:誰がいつ、どのような目的で掘ったのか不明。資料も無いが、海軍特有の掘削の仕方なので民間の防空壕ではないと思われる。ただ設営部隊が掘った整然としたものではなく、兵学校の学生が野外演習などの教育課程で掘ったような"素人っぽさ"がある。

*

道路に面している坑口は5ヶ所あるが、開口しているのは2ヶ所(うち1ヶ所は坑口部分に貯水槽があるため入壕可能なのは1ヶ所、残り3ヶ所は閉塞)。反対側に貫通している坑口は2ヶ所で開口しているのは1ヶ所のみ(もう1ヶ所は閉塞)。

 

縦坑(主坑道)は貯水槽がある坑口を(1)とすると、右方向へ並列に(2)(3)(4)(5)とつづく。入坑可能なのは(2)のみ。

・(1)と(2)は2本の横坑があり

・(2)の坑道の奥には2本の行き止まり(横坑)がある。

・行き止まり坑道(横坑)は、(1)ないし(3)の主坑に連結させようとしたが失敗した感あり。

・(4)にも奥に左へ伸びる行き止まり(横坑)があるが、(3)の主坑に連結させようとしたが失敗した感あり。

・(3)から(5)に向かい下る。

・(3)〜(4)をつなぐ横坑は双方から掘り進めたのか、中間地点で高さが合わず明確な段差在り。

・(4)(5)の2坑道を3本の横坑があみだ籤のようにつなぐ

・(4)の坑道が地下壕最大、

・(4)のみ反対側も開口している。

 

*

向かって左の坑口(1)

貯水槽が幅いっぱいにドーーーンと設置されているため入坑できず。

 

*

向かって左から2つ目の坑口(2)

こちらから入ります(・ω・)ノ

 

 

最初の角を左折

 

左折して直進(横坑)、再び左折(主坑)

「貯水槽」がどーーーーん!

 

坑道に貯水槽を設置って、徹底籠城(持久戦)を決め込んでつくられた八丈島にある地下壕のようだ。

 

貯水槽のせいで左折は出来ないので右折方向を撮る

(1)の主坑の最奥をみているが崩落している。(2)の最奥に掘られた左側の横坑とつながっていたのか、途中で諦めたか、定かではない。

 

一旦、引き返す。

この(1)と(2)を結ぶ横坑は壁全てに支保工があった痕跡あり。

 

入坑した主坑道(2)に出たので、更に奥に進む。

 

凸凹の一定しない勾配がある地下壕ゆえ軌道は敷設不可能。海軍設営隊が掘ったの地下壕とは明らかに違う。直線部も僅かにクネクネ曲がっている。

 

主坑(2)は奥に行くと行き止まりの横坑が左に1本・右に1本ある。行き止まりの横坑は、(1)ないし(3)の主坑に連結させようとしたが失敗した感あり。

 

行き止まりの坑道

岩盤にピット(歯がついた鋼管)で開けたような穴がある。ボーリング調査の痕跡なんだろうか?単なる掘削ではないような・・・よくわからない。

 

 

以下、同じような写真

 

主坑(3)を谷側にみる。

正面は坑口だが閉塞しているため真っ暗。

 

戦後に普及した重たいチャリ

主坑(3)と(4)を結ぶ横坑の入口。

 

自転車がある(3)と(4)を結ぶ横坑は、坑道内部で(4)に向かって下っている。この横坑は双方から掘り進めたのか、中間地点で高さが合わず明確な段差在り。

 

標高が低い(4)や(5)は地盤が良くないのか、崩落箇所が多め。

 

 

(5)の主坑

部分的に支保工を入れた痕跡がある。(5)は奥で部分的に崩落していた。

 

主坑(5)を奥から谷側の坑口方向をみる。

坑口は閉塞しているので真っ暗。

 

主坑(2)に戻り、退出(・ω・)ノ

 

 

終わり

 

 

*

地下壕探索の相棒

 

 

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目次(海外)

[呉警備隊]海軍兵学校大原分校防空砲台(25粍機銃)

広島県江田島市津久茂1-1-1(国立江田島青少年交流の家)

 

計画/竣工:不明

備砲:砲座群は4ヶ所

①25mm単装機銃×1

②8cm高角砲×2、25mm連装機銃×1

③12.7連装高角砲×2、13mm単装機銃×2

④25mm単装機銃×6

 

海軍兵学校大原分校は昭和19年10月1日開校された。海軍兵学校本校の北2キロの津久茂の農地その他を埋め立て、庁舎や各科講堂、生徒館などを急設して昭和19年5月起工・同年9月末には竣工した。

出典:国土地理院 1948/01/12(昭23) USA-M731-A-4、抜粋・加筆

 

戦況が著しく悪化した頃の開校。

 

「ようこそ なにわ会HP」によれば、『兵学校の教育も実戦即応的になり、八雲、磐手による乗艦実習、短艇巡航等は行われたが、遠泳は乗艦が撃沈されたときの脱出訓練に換えられた。兎狩りや幕営等の行事は廃止され、夜間上陸訓練や野外演習が実施された。しかし、普通学とくに語学と理科学の教程を減らされることはなかった』とのこと。昭和20年12月1日閉校。

 

大原分校跡地には昭和43年7月22日に「青年の家」がオープンした。2006年より現在の「国立江田島青少年交流の家」になった。

 

*

出典:アジア歴史資料センター(C08011451400)海軍省「海軍兵学校大原分校引渡目録」

 

出典:アジア歴史資料センター(C08011451500)海軍省「海軍兵学校大原分校 各種一覧表並系統図」

 

この引渡目録の図録をみると大原分校防空砲台は4ヶ所に分散している。

①グランドの南西:25mm単装機銃×1

②グランド南:8cm高角砲×2、25mm連装機銃×1

③青年の家の宿泊棟付近:12.7連装高角砲×2、13mm単装機銃×2

④南東側の尾根上:25mm単装機銃×6

 

*

今回は④の南東側の尾根上にある25mm単装機銃×6を探索する。「国立江田島青少年交流の家」近く、カッター研修場近くの探索道から上がって行く。

 

呉滞在時にお会いした妖怪酒隠し様とカエル先生(祐実総軍三等兵さま)から探索のヒントをいただきました。いつもお世話になっております。ありがとうございました!

 

直登りに近い探索道(綱付き)を登り切ると尾根に出る。Y字路(尾根の右側)を歩くと怪しげな遺構が出てくる。凹みの形状などから機銃座っぽい。この一帯も遺構が色々ありそうだった。

 

 

 

では元に戻りY字路を左、尾根伝いに山頂へ。

 

 

 

道なりに進む

 

 

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

 

 

尾根に幾つもの機銃座が並ぶ(串団子のように)

出典:FineMolds Nano-Dread Series 製品番号 WZ5 1/350スケールプラスチックパーツ 九六式25mm 単装機銃

 

 

 

 

 

 

 

 

交通壕や機銃座には木が生え、これが育ってしまっている。

 

 

 

終わり

 

 

*

江田島、「灯」さんにて牡蠣フライ

 

 

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目次(海外)

[呉警備隊]大須山防空砲台④照聴指揮所など

広島県江田島市江田島町(大須山森林公園)

 

計画:昭和16年2月頃

竣工:昭和17年7月頃

備砲:89式40口径12.7cm連装高角砲×3(砲座は3)

 

江田島北端、大須山(標高259m)〜稜線につくられた海軍の防空砲台。

出典:国土地理院 1981/09/17(昭56) CCG813-C5B-5、抜粋・加筆

 

 

と、大須山山頂付近の稜線にある照聴所(探照灯や聴音機など)の探索の前に。

 

大須山の北側と西側の尾根上、ここに大須山防空砲台付属の照聴所があるようだ。いつもお世話になっているファーザー氏も指摘されているが、竣工時に96式150cm1型陸用探照灯及管制器2型×2、仮称ヱ式空中聴音装置×2が設置された。だが大須山山頂付近の稜線にも照聴所らしきものがある。

 

出典:国土地理院 1975/01/31(昭50) CGC747-C22B-32、抜粋・加筆

 

出典:工藤洋三『徳山要港防備図でたどる周南の戦争遺跡』P10から抜粋

 

呉海軍警備隊戦時日誌の昭和19年7月の記載に、「防空砲台照射聴測装置整理移設を実施すべし/大須山砲台→秋月砲台、96式150cm探照灯1型陸上用1、同管制器2型1」と書かれているので、大須山の西側の尾根上(第1照聴所)と北側(第2照聴所)のどちらかの照聴所の1セットが(秋月砲台へ)移動による廃止になったと思われる。

 

さらに「亀ヶ首、大須山各砲台に残る1組は砲台付近適当なる位置に移設す」との命令も下されており、照聴所の移転先が大須山山頂付近になったと思われる。

 

呉海軍警備隊戦時日誌の昭和20年2月の記載では「12.7cm連装高角砲2基=完備、150cm探照灯1と空中聴測装置1=完備」とある。照聴所にあるのは1セットのみ。なんだが・・

 

引渡明細には

96式150cm探照灯及び同管制器、

付属品補用品共、電動直流発電機 2基

 

2基???

秋月砲台には移設されなかったのか?

資料が無い昭和20年2月以降に増設されたのか、単なる記載ミスなのか。よくわからない。

 

*

大須山山頂付近の稜線にある照聴所(探照灯や聴音機など)に向かう。

 

砲台から指揮所へ向かい、Y字路を左。

 

指揮所を右にみながら尾根を登っていくが、Y字路に詳細不明のコンクリート製構造物の基礎?がある。石組された台座に円形に刳り貫いた何か?がある。下記の防空砲台配置図によれば2式陸用高射装置或いは12cm高角双眼望遠鏡の設置台だったのかも?

 

 

出典:工藤洋三『徳山要港防備図でたどる周南の戦争遺跡』P11から抜粋

 

 

*

尾根を登っていく

 

 

尾根伝いなので景色が素晴らしい(・∀・)

 

対岸は広島市佐伯区五日市あたり

 

登り切ると平坦地が現れ・・

 

円形の石組土台

この円形窪地が探照灯座

 

96式150cm1型陸用探照灯の設置跡地には「三角点」

標高259.5大須山山頂

 

96式150cm1型陸用探照灯

出典:工藤洋三『徳山要港防備図でたどる周南の戦争遺跡』P.29から抜粋

 

照聴所は細長い配置なので、探照灯座を後にして先を進む。

 

少し下ると照聴指揮所と思われる遺構に出る(見下ろす)

 

平坦地の遺構は少ないが、周囲は複数の横穴がある。

 

 

横穴が崩落したのか、交通壕なのかわからないものもある。

 

照聴指揮所とおもわれる地には、僅かながら構造物の遺構もある。

 

 

 

 

 

さらに進む。

 

聴音機掩体と思われる遺構に到着(・∀・)

 

仮称ヱ式空中聴音装置(聴音機)が置かれていたであろう掩体

 

出典:工藤洋三『徳山要港防備図でたどる周南の戦争遺跡』P.28から抜粋

 

 

聴音機の台座か?(・∀・)

 

根性が失せていたので掘らなかったが、露出部分は一部で、もうひとまわり大きな台座だった。ボルトは見当たらずボルトが打たれるべき所は溝みたいになっている。台座全体の直径は約1メートル。仮称ヱ式空中聴音装置(聴音機)は未設置だった可能性もある。

 

 

 

 

では、戻りましょ。

 

照聴指揮所に立ち寄り。

 

 

探照灯座へ

 

 

 

展望が素晴らしい。

 

尾根が痩せているので、探照灯を置く場所の確保が大変だったようだ。

 

 

 

 

砲台の指揮所に戻ってきた!

 

 

終わり

 

*

江田島の「灯さん」で。

 

 

 

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目次(海外)

[呉警備隊]大須山防空砲台③砲座

広島県江田島市江田島町(大須山森林公園)

 

計画:昭和16年2月頃

竣工:昭和17年7月頃

備砲:89式40口径12.7cm連装高角砲×3(砲座は3)

 

江田島北端、大須山(標高259m)〜稜線につくられた海軍の防空砲台。

出典:国土地理院 1981/09/17(昭56) CCG813-C5B-5、抜粋・加筆

 

出典:国土地理院 1981/09/17(昭56) CCG813-C5B-5、抜粋・加筆

 

駐車場に掲げられている看板

大須山防空砲台についての記載は一切無し

砲台関係図にしてみた

 

*

指揮所から上部へ伸びる軍道をあがる。

 

 

89式40口径12.7cm連装高角砲、2門設置

なお砲座は3基あり、形状は同じ。

出典:国土地理院 2013/06/04(平25) CCG20136-C6-5、抜粋

 

40口径89式12糎7高角砲(12.7センチ高角砲)は、大日本帝国海軍が最初から高角砲として設計した砲。通称12.7センチ高角砲。昭和7年2月6日正式採用された。写真は戦艦陸奥に設置された12.7センチ連装高角砲で、岡山県津山市にある日植記念館で撮影したもの。大須山防空砲台に設置された火砲と同じ。

出典:撮影者は私

 

40口径89式12糎7高角砲(12.7センチ高角砲)

最大射程14,622m、最大高度9,439m

 

*

砲座①=南

指揮所から上がると最初に出会う砲座で南にある。

 

雑草だらけで全容がわかりにくいが、昭和期につくられた一般的な海軍高角砲の砲座とほぼ同じ(胸墻には昇降用階段と兵員待機所、即応弾薬置場がある)。写真は田島岳防空砲台の砲座。

 

 

 

 

砲座①の胸墻が一部がカットされ、砲座内部への小階段付きの砲座から指揮所方面へつながる交通壕出入り口がある。交通壕は指揮所脇の崩落部分へ下りながら延びているが、その先は崩落しているので詳細不明。

 

兵員待機所

大須山防空砲台の砲座3基あるが、構造は全てに兵員待機所が設けられている。往時は屋根があったが屋根はいつの頃か崩落してしまった。

 

 

 

 

兵員待機所から砲座①の内部をみる

 

兵員待機所を上から見下ろす

 

兵器員待機所から胸墻の横をみる

 

砲座①内の砲側弾薬置場

 

 

砲座①の火砲設置跡

中心部の穴に下りてみたが、深さは3mはありそう。

 

 

 

砲座①の火砲へ下りる階段

 

3砲座のうち、火砲が設置されていたのは何れか?

 

雑草が茂りすぎてよくわからない。

いつもお世話になっている"kanレポート"さん草刈り直後?の砲座の写真(2015年頃)をwebに載せておられるので参照していただきたし。

 

草刈り直後?の写真を拝見すると、砲座内部の掘り込み方から判断すると、火砲が設置されているのは砲座①=南、砲座③=西の2ヶ所と思われる(あくまでも推測)。

 

砲座②=東

火砲の設置は無かった?

 

 

 

砲座②の兵員待機所

外周から内側の方向を見下ろす。兵員待機所は砲座②がもっとも状態が良い。

 

 

砲座③

藪化が進んでいてよくわからない。

 

 

砲座③の兵員待機所も藪の中・・・

 

 

 

 

弾薬庫?

砲座②から北へ向かう獣道のような軍道を辿ると、弾薬庫の基礎?と思われる遺構あり。

 

弾薬庫?からの景色が素晴らしい!

 

 

 

では、探照灯や照聴指揮所などへ向かいます(・ω・)ノ

 

つづく

 

 

*

江田島といえば「だし道楽」

 

 

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目次(海外)

[呉警備隊]大須山防空砲台②指揮所

広島県江田島市江田島町(大須山森林公園)

 

計画:昭和16年2月頃

竣工:昭和17年7月頃

備砲:89式40口径12.7cm連装高角砲×3(砲座は3)

 

江田島北端、大須山(標高259m)〜稜線につくられた海軍の防空砲台。

出典:国土地理院 1981/09/17(昭56) CCG813-C5B-5、抜粋・加筆

 

出典:国土地理院 1981/09/17(昭56) CCG813-C5B-5、抜粋・加筆

 

*

林道大須線(軍道)は2012年前後に道路拡張と完全舗装工事を開始した。大須山防空砲台の兵舎の一部を駐車場にして大須山森林公園として遊歩道を設けて整備したが、遊歩道の一部は自然災害で崩壊したままで、端的に言えば荒れ果てている。

 

砲座だけは(ボランティアの方々が?)草刈りをしている気配はあるものの、いつ訪問しても背の高い雑草で覆われ茫漠としている(運が悪いだけかしら?)。

出典:国土地理院 2013/06/04(平25) CCG20136-C6-5、抜粋

 

駐車場に掲げられている看板

大須山防空砲台についての記載は一切無し

砲台関係図にしてみた

 

では道路(林道大須線)の反対側にある砲台群・指揮所方向へ移動しましょ。写真右が指揮所、左が砲座群へつづく道。

 

指揮所への道(軍道)は一部が土砂崩れで崩落している。

 

土というか半ば粗めの砂のような地質なので、踏ん張りが利きにくい。

 

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

 

 

数年くらい(たまに)通っているが、更なる土砂崩れで崩壊しそうでしない指揮所。逆に内部の崩壊は少しずつ進んでいる感じ。

 

 

 

 

指揮所の外側の煉瓦にはモルタル塗りの痕跡は無い。煉瓦に直接、偽装のための迷彩ペイントが塗られていたような感じだが確証は無い。

 

 

 

*

指揮所の北東の角(照聴指揮所に行く軍道直下)にコの字型(三辺ではなく四辺だが)に掘られた地下壕がある。

 

数年前まで向かって右側の坑口は開いていたが、2024年冬にはほぼ閉塞していた。

 

 

入室します(・ω・)ノ

 

兵舎の坑道同様、こちらも海軍らしい堀り方。

 

 

最初の角を右折

 

 

 

では退出(・ω・)ノ

 

 

*

では、砲座に向かいます!

砲座ではなく、照聴指揮所に行く軍道の下部は、石組で支えられている。

 

 

*

なお。砲座から指揮所へ下ると、指揮所はこんな感じでみえる

 

 

 

 

つづく

 

 

*

江田島の「灯さん」で。

 

 

 

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目次(海外)

[呉警備隊]大須山防空砲台①兵舎まわり

広島県江田島市江田島町(大須山森林公園)

 

計画:昭和16年2月8日官房機密第1184号

竣工:昭和17年7月頃

備砲:40口径89式12.7cm連装高角砲×3(砲座は3)

 

*

昭和17年7月1〜30日の呉海軍警備隊戦時日誌より

竣工当時の装備

出典:アジア歴史資料センター(C08030471300)「昭和17年6月1日〜11月30日の呉海軍警備隊戦時日誌(2)」

 

引渡目録

12.7cm連装高角砲×2基
95式陸用高射装置付属品補用品共×1組
2式陸用高射装置×1組
サ式4m高角測距儀付属品補用品共×1組
96式150cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機×2基
12cm高角双眼望遠鏡×1個

8cm双眼望遠鏡×1個
貨物自動車×1両
ディーゼル交流発電機陸上用60KVA120V三相60KVA配付×2基
兵舎×3

付属施設×6 

出典:アジア歴史資料センター(C08011272100)「昭和20年9月1日 兵器軍需品施設等目録 呉海軍警備隊(3)」

 

*

江田島北端、大須山(標高259m)〜稜線につくられた海軍の防空砲台。

出典:国土地理院 1981/09/17(昭56) CCG813-C5B-5、抜粋・加筆

 

出典:国土地理院 1981/09/17(昭56) CCG813-C5B-5、抜粋・加筆

 

*

林道大須線(軍道)は2012年前後に道路拡張と完全舗装工事を開始した。大須山防空砲台の兵舎の一部を駐車場にして大須山森林公園として遊歩道を設けて整備したが、遊歩道の一部は自然災害で崩壊したままで、端的に言えば荒れ果てている。

 

砲座だけは(ボランティアの方々が?)草刈りをしている気配はあるものの、いつ訪問しても背の高い雑草で覆われ茫漠としている(運が悪いだけかしら?)。

出典:国土地理院 2013/06/04(平25) CCG20136-C6-5、抜粋

 

砲座・指揮所から下りてくると、兵舎がみえる

(現在は駐車場の方が目立つけど)

 

駐車場に掲げられている看板

大須山防空砲台についての記載は一切無し

砲台関係図にしてみた

 

*

駐車場にされてしまった地に居住用兵舎(寝起きするための兵舎)があったと思われる。

 

駐車場から背後の山方面に階段があり・・・

 

上ると、兵舎の遺構(基礎)が現れる。

遺構からここは烹炊所、風呂場と思われる。

 

 

 

 

風呂場や水回り部分の基礎もバッチリ現存

 

兵舎に隣接した山の裾には防空壕のような坑道がみえる

 

 

海軍らしい堀り方だ。

 

内部にコンクリート製の固定枠(ケーシング)があるので、扉が設置されていたようだ。この坑道は防空壕というより倉庫だったっぽい。坑道はL字型。

 

 

 

坑道出入り口から兵舎を見る

 

背後の山に登ってみる。

(一応、遊歩道的なモノはある)

 

お?水槽(=貯水槽)がある。

 

 

大きい(・∀・)

 

濾過式では無く、単なる貯水槽だ。

 

大須山一帯には水源になる河川が無く、雨水頼りだったようだ。

 

貯水槽がある場所は見晴らしが良いためか、人為的につくられた楕円の窪地や交通壕が確認出来る。

 

 

稜線を下ると、もうひとつ、濾過式ではない大きな貯水槽があった。こちらは破損があり水は溜まっていなかった。

 

 

兵舎に戻る

 

兵舎にも小さめの貯水槽がある

 

では道路(林道大須線)の反対側にある砲台群・指揮所方向へ移動しましょ。

 

 

つづく

 

 

*

江田島の「灯さん」で。

 

 

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目次(海外)

[呉鎮守府]早瀬水雷衛所④標石や突堤など

 

呉鎮守府の開庁は告示が明治22年7月1日付(開庁式は1890年4月21日)。翌年、呉水雷隊が創設され(明治29年4月1日に呉水雷団になる)、水雷敷設隊・水雷艇隊を置く。水雷団を引き継ぐ呉防備隊が創設された大正2年まで存続した。

 

呉水雷団は現在の海上自衛隊呉警備隊西側に置かれていたとのこと。

 

出典:アジア歴史資料センター(C06091182200)海軍省「官用地編入及返地井管理振替譲与(10)」明治31年4月26日、抜粋・加筆

 

 

*

早瀬水雷衛所を退出( ̄^ ̄)ゞ

 

 

 

往時、軍道(上の地図の黄色丸)は石組で補強されていたが、その石組は自然災害等で崩壊し、堆積物で覆われている。

 

軍道脇には海軍境界標石(軍用地境界標)が何本も残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軍道脇、円形の凹と交通壕が確認できる

 

 

 

 

 

*

早瀬水雷衛所、突堤がある地区

海岸から少し上がった所には、火薬庫・発電機室、電気燈室などがある。

 

突堤は下記の写真の赤丸だが、昭和23年1月の米軍航空写真では突起物は無く更地になっている(現時点の航空写真では牡蠣筏が写っているだけ)。

 

米軍撮影の航空写真には、水雷と衛所(試験室や弧器室)を結ぶケーブルの出口部分、資料には描かれていないところに突堤(桟橋)がある


これが下記の図と写真の黄色丸。

水雷衛所廃止後に何らかの動きがあったのかしら?

 

米軍による空撮、昭和23年1月

出典:国土地理院 1948/01/07(昭23) USA-M2-6-22、抜粋・加筆

 

突堤が気になるので行ってみた。

 

横から見ると石を更に積み上げて改修されている。

突堤は昭和期以前のもののようだが、いつ、つくられたものなのか不明。水雷衛所と直接の関わりがあるのかも不明だが、水雷衛所から一番近い突堤であるのは間違いない。なお彦島水雷衛所(山口県)がここと似た構造だ。

 

 

石柱のbollardはいつの時代か不明の修復工事時に付けられたもの、っぽい。

 

 

 

*

海中に敷設された水雷と衛所(試験室や弧器室)を結ぶケーブルがあった、と思われる斜面。ケーブルは土管のようなものを通しているだろうと、近くをサクッと探索したが、雑草が濃くてわからなかった。

 

 

 

終わり

 

 

*

広島県産のウニ

 

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[呉鎮守府]早瀬水雷衛所③試験室など

 

呉鎮守府の開庁は告示が明治22年7月1日付(開庁式は1890年4月21日)。翌年、呉水雷隊が創設され(明治29年4月1日に呉水雷団になる)、水雷敷設隊・水雷艇隊を置く。水雷団を引き継ぐ呉防備隊が創設された大正2年まで存続した。

 

呉水雷団は現在の海上自衛隊呉警備隊西側に置かれていたとのこと。

 

出典:アジア歴史資料センター(C06091182200)海軍省「官用地編入及返地井管理振替譲与(10)」明治31年4月26日、抜粋・加筆

 

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早瀬水雷衛所、全景

水雷衛所は、弧器室と試験室と付属施設で構成される。

 

 

試験室

水雷爆破用の機器(発火装置など)の操作、電源電池の通電電圧などの管理を行う部屋。

 

試験室は2部屋にみえるけど1部屋(ワンルーム)。蒲鉾型の屋根の意匠が無駄に凝っており、でもその屋根は中央部が落ちてしまった。

 

 

入室いたします( ̄^ ̄)ゞ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、下山して突堤に向かいます!

 

 

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広島県産の牡蠣、鉄板焼き

 

 

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[呉鎮守府]早瀬水雷衛所②弧器室など

 

呉鎮守府の開庁は告示が明治22年7月1日付(開庁式は1890年4月21日)。翌年、呉水雷隊が創設され(明治29年4月1日に呉水雷団になる)、水雷敷設隊・水雷艇隊を置く。水雷団を引き継ぐ呉防備隊が創設された大正2年まで存続した。

 

呉水雷団は現在の海上自衛隊呉警備隊西側に置かれていたとのこと。

 

出典:アジア歴史資料センター(C06091182200)海軍省「官用地編入及返地井管理振替譲与(10)」明治31年4月26日、抜粋・加筆

 

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山頂付近の応急防空陣地より水雷衛所に下った。

 

最初に出てくるのは弧器室(視発室)。

(水雷衛所は弧器室と試験室と付属室で構成される)

 

弧器室は方位測定を行うところ。超訳すると、衛所で敵艦がエリア侵入してきたのを確認すると、弧器室では視発弧器(いわゆる照準器)で方位測定を行い、敷設水雷と敵艦との位置関係を求める。敵艦位置と水雷位置とが合致したところでスイッチON!真上の敵艦を爆破する。

 

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応急防空陣地から弧器室を見下ろす

(弧器室全体をみる)

残念ながら掩体は崩壊(爆破?)している。

 

少し下って、弧器室の出入り口をみる

 

破壊されているが、弧器室には掩体もしくは屋根があった(設置痕跡あり)。破壊は上部につくられた応急防空陣地を構築する時か、戦後かは不明。

 

 

土砂堆積などあり、全容がよくわからない。

とりあえず写真を羅列してみる。

 

 

 

弧器室から下にある試験室方向をみる

試験室までは20mほど

 

 

 

 

試験室に向かうために下りる。

 

試験室(左)、何らかの付属施設跡(右)

 

更に下り、全容を見る

 

試験室〜弧器室の道はなかなかの急坂

往時は階段が敷設されていたっぽいが不明。

 

何らかの付属室

歩哨所よりは少し大きい規模。

 

 

 

 

この付属施設、よくみるとトタン屋根だったようだ。

 

 

 

 

とても小さいので駐留している係員は少なかった?

 

 

 

つづく・・・

 

 

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広島県産の穴子とウナギのどんぶり(・∀・)

 

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[呉鎮守府]早瀬水雷衛所①応急防空陣地

 

呉鎮守府の開庁は告示が明治22年7月1日付(開庁式は1890年4月21日)。翌年、呉水雷隊が創設され(明治29年4月1日に呉水雷団になる)、水雷敷設隊・水雷艇隊を置く。水雷団を引き継ぐ呉防備隊が創設された大正2年まで存続した。

 

呉水雷団は現在の海上自衛隊呉警備隊西側に置かれていたとのこと。

 

出典:アジア歴史資料センター(C06091182200)海軍省「官用地編入及返地井管理振替譲与(10)」明治31年4月26日

出典:アジア歴史資料センター(C06091182200)海軍省「官用地編入及返地井管理振替譲与(10)」明治31年4月26日

 

呉滞在時にお会いした妖怪酒隠し様とカエル先生(祐実総軍三等兵さま)から探索ポイントを教えていただきました。いつもお世話になっております。ありがとうございました!

 

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ワークセンターおおきみ、付近から登っていく。

帰路に気がついたが、下部〜山腹付近の軍道は、2018年7月の大洪水で土砂と倒木が堆積してよくわからない状態になっている。というわけで豪快に道を間違えたことにより大回りになってしまったが、不幸中の幸いで、山頂付近の稜線から早瀬応急防空陣地を発見し、応急砲台より水雷衛所に下った。

 

水雷衛所及び応急防空陣地(機銃陣地)がある山々は、土が脆く踏ん張りが利きにくい。山々をつなぎ稜線は所々、砂岩が露出している。出発から3つめの山の稜線で塹壕?交通壕を発見(・∀・)

 

 

写真ではわかりにくいが塹壕のライン上に3ヶ所(だったかな?)の大きめの円形窪地、簡単に書けば串団子みたいな陣形。

 

凹みの形状や大きさから高角砲/高射砲の類いではなく、機銃座っぽい。陸軍のものか海軍のものかも不明。。。

 

 

 

 

 

では、早瀬水雷衛所に下ります!

 

 

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瀬戸内の小イワシ、刺身

 

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