船宿・鶴や(亭主・利右衛門)
🔶「やみそうもござりませぬな」
顔見知りの[鶴や]の亭主が、熱い酒と共に、田螺(たにし)とわけぎのぬたの小鉢を盆にのせて、平蔵のいる座敷へあらわれた。
「や・・・・・・これはうまそうな」
平蔵は、すぐに箸をとり、
「御亭主。よかったら酒の相手をしてくれぬか」
「はい。私でよろしいのでしたら・・・・・・」
亭主の名を利左衛門という。六十がらみの、出っぷりとした好々爺(こうこうや)であった。女房のおみちはずっと年下の四十になるかならぬかという、これも気さくなはたらきもので[鶴や]の経営は一手に彼女がきりまわしている。
そのとき、[鶴や]の女中が表の戸をしめようとしていた。持舟は客を乗せて出ているし、平蔵たちは今夜泊るというので、戸じまりだけは一応しておくことにしたのだ。
と・・・・・・。
しとしととけむる雨の暗い道から、ぬっと[鶴や]へ入って来たさむらいがある。金子半四郎であった。
「ちょいと休ませてもらいたい。酒をたのむ」
半四郎が、おだやかにいうのをきいて、女房おみちが出た。見ると身なりもととのった武士だし、ことわる理由もないので、
「さ、どうぞ。お二階へ・・・・・・」
愛想よくこたえたのだが、これを何気なく、台所口の土間からのぞいて見た亭主の利左衛門の顔が、空間に凍りついたようになった。
◇
仕度に入る女中と擦れちがうようにして、亭主の利右衛門があらわれ、階段を二、三段ほど上った半四郎の背後から、何と、
「金子半四郎どの」
と、押しころしたような声をかけたものである。
「・・・・・・・・・・」
振り向いた半四郎の躰へ、老人の利右衛門が躍り上るようにして、猛然と躰ごとぶつかっていった。
「うわ・・・・・」
半四郎の絶叫・・・・・。
二人は折り重なるようにしてころげ落ちたが、利右衛門は必死に半四郎へしがみつき、相手の腹へ突き通した出刃包丁をえぐりまわす。
おみちの悲鳴と半四郎二度目の絶叫があがる。どうも大変なさわぎになってしまった。
平蔵と左馬之助が駈けつけたとき、女房は気を失って利右衛門の両腕に抱えられてい、台所口では女中ふたりが腰をぬかしていた。
あたりいちめん、血の海であった。
金子半四郎は仰向けに倒れ、その血の海の中で息絶えており、刀の柄にも手がかかっていない。
この恐るべき暗殺者の最期としては、呆気(あっけ)なさすぎる。半四郎の全神経は階上の平蔵へ向けてそそがれ、そのうしろから思いもかけぬ人の奇襲をうけたからであろう。
半四郎は、船宿の亭主・利右衛門の顔さえ判別(はんべつ)できぬうちに死んだ。
「いったい、これは・・・・・・?」
長谷川平蔵は、血のにおいの中にさえ、はっきりとただよう[白梅香]の香りを嗅ぎながら、利右衛門へ問うた。
「はい・・・・・・」
利右衛門は臆することなく、
「この仁(じん)は、むかし、私めが国もとで打ち果しましたる金子七平の息、半四郎にござる」
と、いいはなった。
「ふうむ・・・・・・」
「敵討ちも武士のならいならば、返り討ちも武士のならいでござる」
と、利右衛門は胸を張って、平蔵と左馬之助へ、
「いかが」
反問してきたものである。
平蔵はこれにこたえず、左馬之助をかえりみて、
「この男だよ、おれをつけねらっていたのは・・・・・・」左馬之助をかえりみて、いった。
◇
それから半刻後。
[鶴や]の二階で、平蔵と左馬之助が亭主・利右衛門と酒をくみかわしている。
金子半四郎の死体は、火付盗賊改メ長谷川平蔵を暗殺せんとした名も知れぬ曲者(くせもの)ということで始末されたらしい。
「まあ、まる一年は江戸を留守にすることだな、利右衛門・・・・・・いや森為之介どの」
と平蔵が、
「留守中、この船宿は、おれが手のものでちゃんとまもっておこうよ」
「おそれ入りました」
「来年の今ごろ、お前さんが帰って来たら、このままのすがたで鶴やが待っている」
平蔵は、小房の粂八に、この船宿をあずけるつもりでいる。
(一)暗剣白梅香 ↓
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※[鶴や]に関しては、これ以後、2009年4月の項目[密偵]①と②に掲載。
★①小房の粂八(密偵・船宿[鶴や]の主人)
★②小房の粂八(「船宿・鶴や」に関わる事柄)
船宿・鶴やに関わる者
金子半四郎
・それまで、金子半四郎は[鶴や]と堀川をへだてた扇橋代地の居酒屋にいて、川向うの[鶴や]の二階を見張っていたものである。
そのうち、彼はもう、居酒屋の障子の隙間から長谷川平蔵を見張っていることに耐えられなくなってきた。
(一)暗剣白梅香
岸井左馬之助
・この船宿を紹介してくれたのは、剣友・岸井左馬之助である。
「あの夫婦が鶴やを買い取ったのは五年ほど前なのだがね。女房はともかく亭主の利右衛門さんは、過去(むかし)、いろいろな目にあってきている人らしい」
その岸井左馬之助からも「亭主の過去へはふれるな。そのかわり、お前さんの役目上の秘密も、あの亭主夫婦は決してもらさぬから安心しろ」と念を押されている長谷川平蔵であった。
(一)暗剣白梅香
小房の粂八
・「それにしても粂八、よく長つづきしてくれる。ありがたいぞ」
以前の盗賊(なかま)を売る密偵(いぬ)となりきった粂八だが、長谷川平蔵の、長官としての寝食を忘れた真摯(しんし)な努力に感化されてか、
「私はもう、むかしの仲間にいつ殺(や)られてもいい覚悟ができておりますよ」
と、平蔵にいえるような男に小房の粂八はなっていたのである。
(一)暗剣白梅香
長谷川平蔵
・平蔵はこれにこたえず、左馬之助をかえりみて、
「この男だよ、おれをつけねらっていたのは・・・・・・」と、いった。
(一)暗剣白梅香
森為之助=[鶴や]亭主・利右衛門
・利右衛門は臆することなく、
「この仁(じん)は、むかし、私めが国もとで討ち果しましたる金子七平の息、半四郎にござる」
と、いいはなった。
「敵討ちも武士のならいならば、返り討ちも武士のならいでござる」
と、利右衛門は胸を張って、平蔵と左馬之助へ、
「いかが」
反問してきたものである。
(一)暗剣白梅香
🔶後は、密偵・小房の粂八の項目を見る。