ほn本郷和人の 日本史ナナメ読み

 

歴史的人物と性格・番外編

 

 財務省の事務次官が取材に来た女性記者に「触っていい?」と尋ねた。セクハラだ、と大ニュースになっています。福田淳一さんという方でしたよね。ぼくは彼と大して年が違わないので、複雑な思いがあります。本コラムはそれを書く場ではないので自粛しますが、まあいろいろ考えたのです。それでヘンな話ですが、その過程で小戸信長の比叡山焼き打ちを想起しました。

 

 いま比叡山を訪ねると、長い歴史や規模のわりに国宝や重文クラスの建造物や仏像はほとんどない。膨大に蓄積されていたはずの古いお経や古文書もない。なぜかというと、信長が焼いてしまったから。中世ではお寺が兵乱や火災に見舞われることがしばしばあり、そうした場合にお坊さんたちは仏様や経典をともかく退避させる。その観念がありながら何もできなかったのですから、信長の破壊の徹底ぶりがうかがえます。

 

 比叡山延暦寺は日本仏教の事実上の総本山です。それを丸ごと焼いてしまった。善悪はおくとして、絶対に普通じゃない。それなのに、信長は神仏を軽んじていたわけではない(重んじた、とは言わないところがミソ)、と説く研究者がいるのであきれます。

 

 それから、信長はちゃんと「手続きを順守」(左の方はこれが大好き)しているので彼の行為はよく理解できる、という研究者がいる。信長は比叡山に対し「浅井・朝倉ではなく織田の味方をしろ」→「ノー」、「じゃあ、せめて中立を守れ」→「ノー!」、「そんな無礼な態度を取るのなら焼いちゃうぞ」→「できるものならやってみろ!」、「ホントにやるぞ」→「だから、やってみろ!」、「いいんだな」→「来るなら来い!」、「よろしい、ならば戦争だ」。つまり攻撃するに際して順を踏んでいるのだ、と。

 

 いや、この理屈って、福田事務次官と変わりませんよね。聞けばいい、ってものではないように、順を踏めば何をやってもいい、ってものでもない。触る前にいちいち確認してもセクハラはセクハラだし、手順を尽くしても大量破壊は大量破壊です。

 

 ぼくの持論ですが、日本の歴史は世界に比べると穏やかで(あくまでも世界に比べて、ですが)、特定の権力者による虐殺がない。中国では焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)があったり、「禿(はげ)」という字を使っただけで死刑なんて信じられないようなことが起こる(文字の獄)。ヨーロッパではキリスト教がらみで山ほど人が死ぬ。キリスト教については日本でも島原の乱などいたましい犠牲者が出るわけですが、この歴史上の人物が大虐殺を行った、ということはありません。

 

 その唯一の例外が信長です。彼は伊勢長島で一向宗の門徒2万人を殺害した。越前では同じく門徒1万2千人を殺した。当時の人口は現在のおよそ1割ですから、僕らの感覚にすると20万人、12万人を一時に殺し尽くした、という感じです。恐ろしすぎる。ちなみに比叡山攻めの時も4千人が犠牲になったといいます。

 

 やっぱり信長は、くり返しますが「善悪はおくとして」、普通ではない。彼を三好長慶と比べてみたり、一人の戦国武将にすぎないと評価したりする研究者が多くなってきていますが、それは「木を見て森を見ない」ことにならないかな。

 

 脳科学者の中野信子先生は、信長はサイコパスだったんじゃないか、と分析します(『戦国武将の精神分析』宝島社新書)。人の痛みが分からない。だから平気で人を殺せる、と。うん、そうか。

 

 信長がサイコパスだとすると、多くのことが理解できます。ただ一点、「美」について。ここだけがひっかかる。というのは、サイコパスは美しさに無頓着なのだそうです。けれど信長は茶の湯を好み、「新しい城」を創造した。これは美の追及ではないのか。

 

 この点を中野先生に率直に尋ねたところ、彼ほどの権力者になれば、行動の動機は「好きだからやる」というような単純なものではなくなってくる。茶の湯を好む、城を造ることが生じるメリットを信長が計算していたとは考えられないか。きわめて計算高いというのもサイコパスの特徴だ、というお答えでした。

 

 なるほど、それもあるか。歴史上の人物の感情や志向を立証するのは困難だ、とはぼくが常々主張していることでもあります。この問題については、もう一度よく考えてみることにしましょう。

 

ー2018年5月の新聞よりー