月のクレーターに名を刻まれた日本天文学の先駆者

 

 月面のクレーター「アサダ」ーーーこの名は天体観測技術を飛躍的に高め、

 

 

日本に近代的な天文学を根付かせた江戸時代の天文学者・麻田剛立(ごうりゅう)

 

を称えて名付けられたものである。

 

 

脱藩、改名してまで天文学の向上に捧げた人生

 

 

 

 麻田剛立(本名・綾部妥彰(あやべやすあき))は、享保19年(1734)、豊後国(大分県)杵築(きつき)藩の、儒学者の四男として生まれた。幼い時から利発だった剛立が特に興味をもったのは、太陽や月など天体の動きだった。7歳の時、縁側に射す太陽光の動きを1年間にわたり観測し続けたと伝えられる。その後も独学で天文学の勉強を続け、17歳の時には、公式の「宝暦暦(ほうれきれき)」に記載されていない日食を独自に予測。さらに、宝暦13年(1763)、やはり剛立は「宝暦暦」に記載されていない日食を予測し、的中させる。この話は杵築藩全体に広まり、藩主の耳にまで届いた。

 

 

 5年後、独学で天文学とともに医学を修めていた剛立は、藩主の侍医(じい)にとりたてられた。藩主の参勤交代や大坂城警固役(けいこやく)就任に従って江戸・大坂と移り住み、医学・天文学の最先端の知識に触れ、大きな刺激を受ける。

 

 

 だが次第に、侍医仲間との人間関係に悩むようになるとともに、学問に専念したい思いが強まり、藩主に辞職を願い出た。ところが、藩から許しを得ることができず、安永元年(1772)に脱藩して大坂へ向かう。当時、脱藩は死罪にも当たる大罪で、身元を隠すため綾部妥彰(やすあき)の名を捨て、先祖の出身地にちなんだ麻田を姓とし、剛立と名乗った。

 

 

 大坂で剛立は、町医者として生活の糧(かて)を得ながら、天文学の研究や観測機器の改良を続けた。その優れた学識と正確な観測技術の評判は、たちまち大坂の天文愛好者の間に広まった。薬問屋を営む山本彦九郎、質屋の間(はざま)重富ら、大坂の裕福な町人が次々と弟子入りを志願する。

 

 

 このうち彦九郎は、オランダから最新式の反射望遠鏡が輸入された時、高価であるにもかかわらず即金で買い取り、剛立に提供した。その望遠鏡の精度は、剛立の想像を絶するものであった。月を観測した剛立は、岩のような月面に大小無数の池(クレーター)があることに驚きの声を上げたという。精密な望遠鏡は、月面に射す太陽の影も映し出し、そこから剛立はクレーターの規模まで試算している。そして、観測の成果として剛立は、安永7年(1778)、日本最古といわれる「月面観測図」を残す。そんな剛立の功績を称え、1976年にはIAU(国際天文学連合)より、クレーターに「アサダ」の名が付けられた。

 

 

 寛政9年(1797)、弟子の高橋至時(よしとき)・間重富(しげとみ)が「寛政暦(かんせいれき)」の編纂(へんさん)を成し遂げたことへの褒美(ほうび)を幕府から受けた剛立だったが、2年後の寛政11年5月22日、66歳でこの世を去る。剛立の業績は、高橋至時(よしとき)から伊能忠敬(ただたか)へと伝えられて正確な日本地図づくりを支えるなど、日本の近代天文学・地理学を支える基礎となった。

 

 

 

剛立の弟子が完成させた精度の高い「寛政暦」

 

 

 

 老中・松平定信ら幕閣は、日食の予報を外すなど欠点の多い「宝暦暦」を改め、最新の西洋天文学などを取り入れて新しい正確な暦を編纂(へんさん)するよう、幕府天文方(てんもんがた)に命じた。しかし、世襲制度により役職を保証されていた天文方の役人は向上心に乏しく、新しい知識に対応できる能力はなかった。暦制定の基礎となる天体観測の精度も劣っていた。

 

 

 そこで幕閣は、麻田剛立の推薦に基づいて高橋至時(よしとき)と間重富に暦の編纂を命じる。だが、既得権益を侵されることに危機感を抱いた天文方の役人らは非協力的であった。

 

 

 天文方内の人間関係に悩まされた至時と重富だったが、剛立のもとで学んだ知識と正確な観測技術は役人らを圧倒した。実力主義を取り入れて天文方の機構改革まで果たした至時と重富を中心に、寛政9年(1797)、正確な「寛政暦」は完成された。