恋に身を焦がし、放火という大罪を犯した16歳
八百屋お七といえば、井原西鶴の「好色五人女」のモデル、
あるいは人形浄瑠璃や歌舞伎のヒロインとして知られる。
お七は江戸の大火をきっかけに恋をし、そして、16歳で刑場の露と消えた。
一途な恋の果てに
お七は、本郷追分(現・東京都文京区)の八百屋の娘として生まれた。子どもがほしくてしかたなかった両親が延命院(現・荒川区)の七面大明神に願かけをして生まれた子だったので、お七と名づけられたという。家は裕福で、何不自由なく育った。
天和2年(1682)12月、お七が15歳の時に江戸を大火が襲う。駒込の大円寺(現・文京区)から上がった火の手が本郷、上野、浅草、神田、日本橋へと広がり、大川(隅田川)を越えて本所まで焼きつくした。死者は3500人に及んだといわれる。
この火事で焼け出されたお七の一家は檀那寺の円乗寺(一説には正仙寺)に避難し、しばらく身を寄せることになる。そこでお七は寺小姓の生田庄之助(一説には佐兵衛ともいわれる)に出会い、恋に落ちたのだ。
年が明けて一家は新築された家にもどるが、お七は庄之助のことが忘れられなかった。恋しさはつのるばかり。思いつめたお七はとうとう自宅に火をつけてしまう。火事になればまた庄之助に会えると思ってのことだった。
幸い火はすぐに消し止められ、大事には至らなかった。しかし、お七は放火の罪で町奉行所に捕らえられ、お白州に引き出された。
全国に広まったお七事件
江戸時代、放火は死刑にあたる大罪だったが、15歳以下であれば罪一等を減じるという規定があった。つまり、死罪を免れ、遠島で済ますことができたのだ。この時、お七は数えで16歳。まだ幼さが残るお七を見て哀れに思った町奉行は、15歳だといわせて罪を減じようとしたという。だが、奉行の思いはお七に届かなかった。お七は、自分は16歳だといい張り、証拠として宮参りの記録まで出したため、ついに死罪が下されてしまう。
こうして天和3年(1683)3月29日、お七は市中引廻(ひきまわ)しのうえ、大井村の鈴ヶ森刑場(現・品川区)で火あぶりの刑に処せられた。
16歳の少女によるこの事件は、瓦版によってたちまち全国に広まった。一方、庄之助はお七の死後、剃髪して名を西運(さいうん)と改め、お七の供養をしたとも、高僧になったともいわれている。お七の墓は、いまも円乗寺にある。
見せしめだった江戸の死刑
江戸には、お七が処刑された鈴ヶ森刑場と、明和8年(1771)に杉田玄白らが死体の解剖を見学した古塚原(こづかっぱら)刑場(現・荒川区)の二大刑場があった。鈴ヶ森刑場は東海道、古塚原刑場は日光・奥州街道付近に置かれていた。どちらも江戸の入口のあったのは、刑の執行を人々の目にあえて触れさせるためだったといわれる。
火あぶりは火罪といって、執行は放火犯人に関してぎられた。市中引き廻しのうえ、刑場に送られ、馬から下ろされて縄のまま罪木に登らされた。さらに茅薪(かやまき)で四方を覆い、そこに火をつける。焚骸(ふんがい)はそのまま、3日2晩晒し置かれたという。
ー鬼平犯科帳 DVDコレクション 54-